藤堂高虎(1556~1630年)という戦国武将がいます。最近、NHK大河ドラマ「真田丸」が話題になっていますが、その真田丸を大坂冬の陣の際に、徳川側として前田利常、井伊直孝、松平忠直らとともに攻撃した武将として知られています。
高虎は、主君を何度も変えたことから変節漢などとも呼ばれ、小説などでは悪役として描かれることも多い武将です。豊臣家への忠義を貫き、華々しく散り、「真田丸」の主人公として描かれる真田信繁(幸村)と比べると人気、知名度は雲泥の差があります。しかし、その生涯を見ると、文武両道の傑出した才能を持った人物だったことが分かります。
戦国の世ですから、当然「武」に優れていることが出世の条件です。一説には身長190cmを超えたと伝えられる偉丈夫の高虎は、戦場でも抜群の武勲を挙げます。高虎のユニークな点は、天下人(豊臣秀吉、徳川家康)に認められていた「文」の才能です。「文」といっても、書や和歌、茶道などではありません。築城術です。熊本城などを築いた加藤清正(1562~1611年)と並んで城づくりの名手と称され、その生涯で18の築城に関わったといわれています。
戦国時代、城は武将たちにとって戦いの基地でした。敵から攻められても落ちない強固な城を築くことは、生き残るための必要条件です。同時に城は領国支配の中心的役割を果たし、権力の象徴でもありました。織田信長は「楽市楽座」など、新たな流通経済の中核として安土城を建造し、豊臣秀吉は権勢を示すため豪華絢爛(けんらん)な大坂城を建てました。戦国武将にとって城は単なる建物以上の意味を持つ存在だったのです。
築城術が評価され、戦国の世で天下人に認められた高虎は、現代ビジネスでいえば、企業になくてはならない最先端技術を持ったハイテク企業といったところでしょうか。では、まずその高虎の生涯を振り返ることにしましょう。
藤堂高虎は1556年、近江国(現在の滋賀県)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。1570年に近江国の浅井長政に仕え、姉川の戦いで足軽として戦功を挙げ初陣を飾ります。しかし、浅井氏が織田信長によって滅ぼされたため、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征(あつじ・さだあき)、次に同じく旧臣の磯野員昌(いその・かずまさ)、さらに信長の甥・織田信澄に仕えます。が、いずれも長続きせず、流浪生活を余儀なくされます。
この頃の逸話が『出世の白餅』という講談・浪曲になって残っています。阿閉氏のもとを出奔した後、困窮した高虎は思わず餅屋で無銭飲食してしまいます。高虎が店主に正直に話したところ、罪を許されて路銀まで持たせてもらいました。それから約30年後、大名となった高虎は参勤交代の折、わざわざ店に立ち寄り、あのときの餅代といって大金を渡した……。こんなストーリーです。
さてそんな高虎でしたが、1576年に秀吉の弟の豊臣秀長に見いだされてようやく腰を落ち着けます。以後、次々と戦功を挙げて、1587年には紀伊粉河(現在の和歌山県紀の川市)領主となり2万石の大名に出世。秀長亡き後、後継者の秀保の後見人となりました。しかし、1595年、その秀保が亡くなり、高虎は高野山で隠居生活に入ります。このとき齢(よわい)40歳です。これで表舞台から退場するのかと思われましたが、高虎の力量を惜しんだ秀吉が懇請したことで高野山を下り、伊予三郡(7万石)の領主となります。
1598年に秀吉が没した後、今度はもともと親交のあった徳川家康に接近します。関ヶ原の合戦の後、1608年、家康から伊勢国の一部・伊賀国一円の領主を命ぜられ、初代津(現在の三重県津市)藩主となります。家康に重用された高虎は江戸城改修などに関わり、1630年に江戸でその人生を終えました。
ざっと高虎の生涯を見てきましたが、彼の生きざまから現代に生きる我々ビジネスパーソンはなにを学ぶことができるでしょうか。
技術を極めたからこそ、天下人に厚遇される
まず高虎の名誉のために言っておきたいのが、何度も主君を変えたことに対する評価です。浅井長政から徳川家康まで仕えた主君は8人に上ります。ただ、「武士は主君に忠誠を尽くすべし」という考えは江戸時代に儒教的な思想が入ってきてからのものです。戦国時代では自らが生き残るために主君を変える行為は当然でした。城は軍事機密の塊ですから、もし高虎が本当に信用の置けない人物だったら、城づくりを任されることなどあり得なかったでしょう。
先にも述べましたが、高虎が出世の階段を上り始めるのは、1576年に豊臣秀長に仕えてからです。秀長傘下で数々の武功も挙げましたが、出世を加速したのが城づくりという技術でした。秀長に仕えてから約10年後、紀州(現在の和歌山県)征伐で戦功を上げた高虎は、初めて普請奉行として猿岡山城、和歌山城の築城を命じられます。ここから城づくりの名手・高虎のキャリアが本格的にスタートし、以降、宇和島城、今治城、篠山城、津城、伊賀上野城、膳所城などの築城に携わり、城づくりのエキスパートとして重用されていくのです。
石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があるのが高虎の築城のポイントでしたが、その技術力は抜きんでていたようです。例えば、高虎が築城した順天倭城は慶長の役で明・朝鮮軍による攻撃を寄せ付けず、撃退に成功した要因となりました。また層塔式天守築造という方法を創り出したといわれています。
こうした城づくりの技術が家康の信頼を勝ち取ったのは間違いありません。このように余人に代えがたい技術を極めれば、天下人さえも一目置く存在になれるのです。そして、戦国時代から徳川時代に移り、「武」を誇った外様大名に逆風が吹く中でも、「技術」を極めた高虎は厚遇されます。これは、現代ビジネスにも通じるものがあります。
世界で初めてミドリムシ(学名:ユーグレナ)の屋外培養に成功し、食品や化粧品、バイオ燃料の分野で事業化に取り組むユーグレナというベンチャー企業があります。学生時代にバングラデシュで貧困を目の当たりにした出雲充社長が飢餓とエネルギー問題の解決を目指し、2005年に設立しました。
ミドリムシの屋外培養を成功させた技術力をもとにサプリメント向け原料などを生産し、食品・医薬品メーカーに提供しています。その供給先となっているのは武田薬品工業など、日本を代表する大企業。現在では、東京五輪・パラリンピックが開催される2020年を目標に、ミドリムシを使ったバイオ燃料の事業化に取り組んでいます。この共同事業の相手も、日鉱日石エネルギー、ANAといった日本を代表する大企業が並んでいます。
出雲社長は、会社設立当初、取引先開拓のために運賃が安い夜行バスで全国を飛び回っていました(高虎が流浪していた時代を思い起こさせます)。その後、独自技術が花開き上場を果たして、前述の通り大企業からの共同事業のオファーが絶えないまでになりました。高虎の築城術同様に、技術を磨き続けることで大企業のパートナーとしてなくてはならない存在になったわけです。