NHK大河ドラマ「真田丸」が好調です。このコラムでは、第9回に草刈正雄さんが演じる真田昌幸(1547~1611年)を取り上げましたが、今回は堺雅人さんが演じている主人公、真田信繁(幸村、1567~1615年)を紹介します。真田幸村というのは江戸時代の書物や講談に見られる通称なので、本コラムでは正しく信繁と記載します。
真田信繁は1567年に甲斐(今の山梨県)の武田氏に仕える真田昌幸(当時は武藤昌幸)の次男として生まれました。武田氏の滅亡に伴って、父・昌幸は主君を何度も変えます。信繁は、まずは上杉景勝、次には豊臣秀吉のもとで、人質生活を送ることになります。
その後、長男・信之は独立して徳川家康に臣従。信繁は父・昌幸と行動を共にします。戦国きっての謀将とも呼ばれた父のもと、いわば“COO”としてバリバリ仕事をこなす中で、信繁は多くの優れた戦略・戦術を学んでいったと思われます。
例えば、1600年、石田三成による家康弾劾の呼びかけに応じて昌幸が西軍についたため、上杉討伐のために一緒に進軍していた徳川軍から離脱し、上田城で籠城します。徳川軍は約3万人もの兵力で攻め込みますが、昌幸と信繁はわずか3000人で迎え撃ち、敵に大損害を与えています。
しかし、その後、信繁にとって不遇の時代になります。関ヶ原の戦いで西軍が敗れたため、命こそは兄・信之の尽力もあり、助けられましたが、昌幸と共に高野山の麓にある九度山に配流されてしまいました。その地で1611年、昌幸が病没した後には、かなりの家臣たちが本家である信之の下に去っていったといわれています。そんな信繁に、家康と対決する豊臣秀頼から大坂城入城の要請が届きます。世に言う「大坂の陣」が切って落とされるのです。すでに信繁自身も40代後半。病のためもあり、歯は抜け落ち、頭は白髪になっていたともいわれています。
献策が採用されなくても次善の策で奮戦…
請われて大坂城に入城したものの、ここでも信繁がすぐに脚光を浴びるわけではありません。これまで昌幸と行動を共にしていたこともあり、この時点では信繁単独の武勲はあまりありません。徳川家康が警戒していたのは、何度も痛い目にあった昌幸の動向だったともいわれています。そんなこともあり、信繁の献策は受け入れられなかったのです。
信繁は、籠城しても兵糧が尽きるか内乱を招く恐れがあると考え、近江国瀬田(滋賀県大津市)辺りまで出て、家康軍を迎え撃つ積極策を主張します。しかし、結局は大坂城への籠城策が取られることになってしまいました。
それでも信繁は籠城策を成功させるために力を尽くします。城の南にある高台に土づくりの出城、大河ドラマのタイトルともなった「真田丸」を築くのです。ちなみにこの出城構築の際、他の武将たちからこれが徳川方へ寝返るための準備だと疑われてもいます。信繁にとっては憤懣(ふんまん)やる方ない話ですね。
こうした味方の信頼さえ確かではない中で、信繁は奮戦します。鉄砲隊が真田丸の堀に敵を引き寄せて打ち倒すという戦術で徳川方に大損害を与えました。その後、徳川・豊臣の間で和ぼくが成立、大坂冬の陣が終わります。そして、徳川家康の調略により、大坂城の外堀は埋められ、信繁が心血を注いで築いた真田丸もあえなく取り壊されてしまいます。
城の防御が手薄にされた後に、大坂夏の陣が始まりました。ここでも信繁は勝利のために、全力で策を講じますがうまくいきません。最後は、数度にわたる突撃で家康の本陣を脅かしますが、兵力に勝る敵の前に討ち死にします。このときの信繁の活躍ぶりは、敵方であった島津氏が後に「真田は日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と評するほどでした。
不遇に耐えて、チャンスに全力を尽くす
さて、この信繁の生涯からビジネスパーソンは何を学べるでしょうか。信繁といえば、今回「真田丸」の主人公になったように、派手な、かっこいいイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。しかし、生涯を見る限り、度重なる不遇を耐える粘り強さが浮かび上がってきます。
ビジネスにおいては忍耐も大切です。事業はいつも順風満帆というわけにはいきません。逆風のことも多々あります。自分の思い通りにならなくても、時機を待つ姿勢も必要です。その間に、技術の進歩、ライフスタイル・社会情勢・経済環境の変化などで風向きが変わることがあります。そのときに身命を賭してまい進する。もちろん、それでも成功するかどうかは時の運ですが、こうした粘り強い姿勢が成功のためには重要です。
信繁の49年に及ぶ人生は、人質生活、蟄居生活など不遇の時代も多く、後世に残る活躍を見せたのはわずか1年程度にすぎません。信繁の人生は思い通りにいかないことのほうが多かったともいえるでしょう。しかし、それにもめげずに忍耐強く我慢し、常に最善を尽くし続けることで後世に講談や小説で英雄として描かれるほどの存在となったのです。
そんな信繁の矜恃を示すエピソードが残されていますので、最後にご紹介しておきます。家康が大坂冬の陣での活躍ぶりを見て、信繁に寝返るよう使者を出したときのことです。十万石を与えるという家康の条件を信繁は拒否します。それでも家康は諦めず、信濃一国を与えるという好条件を出すのですが、これを聞いても「10万石では不忠者にならぬが一国では不忠者になるとお思いか」と家康をはねつけたといわれています。このときに、一国の主となっていれば、信繁がここまで有名になることはなかったでしょう。実よりも名を取り、大輪の花を咲かせたわけです。