NHKの大河ドラマ「真田丸」の人気の要因に、従来とは少し違った戦国武将像を個性的な配役で描いていることがあります。その意味で注目なのが、今後登場する徳川秀忠(1579~1632年)です。脚本を手掛ける三谷幸喜さんがどのような人物として捉え、歌手で俳優の星野源さんがどう演じるのかが楽しみです。
秀忠に注目するのは、一般のイメージと残した実績にかなり差がある人物だからです。徳川家康という偉大な英雄を父に持つ、ダメな2代目というイメージはありませんか。しかし、偉大な父の業績を子どもがうまく受け継ぐことができず没落した織田家、豊臣家あるいは武田家と比較してください。家康の天下取りを支え、徳川家の統治を盤石なものとして、3代将軍徳川家光につないだ実績は、戦国時代を終わらせる大きな役割を果たしたことを示しています。
2015年は大塚家具で親子による経営権をめぐる騒動がありました。2016年のセブン&アイ・ホールディングス、鈴木敏文会長の引退表明の際も、創業家との関係や後継者の問題が浮上しました。こうした事例は大企業に限りません。事業承継をスムーズに進め、さらなる発展を実現することは規模を問わず、企業にとっての大きな課題です。
それだけ事業承継は難しく、しかもいろんな立場があるということです。創業者である父が偉大であると、会社を継いだ2代目は周囲から頼りなく見られたり、2代目自身も「どうせ俺なんて……」といじけたりする場合があります。周囲の見方に反発して、独自の戦略を打ち出したり、新規分野に進出したりして、失敗するケースも珍しくありません。本当に実力不足で、競合企業にシェアを奪われたり、部下に会社を乗っ取られたりすることもあるでしょう。
戦国時代も承継の難しさは同じです。後述しますが秀忠は将軍になる前に大失態を犯しています。なんともはや頼りない2代目という印象ですが、実際は徳川家・徳川幕府が約260年にわたって存続する基礎を築いた「中興の祖」といえる“名経営者”と評価することができます。その生涯とエピソードを簡単にご紹介しましょう。
秀忠は1579年、遠江国(現在の静岡県西部)で誕生しました。家康の3男でしたが、長男・信康は自害し、次男・秀康は豊臣秀吉に養子として出された後、結城氏を継いだため、徳川家の有力な後継者になりました。
1590年、小田原征伐の際に豊臣秀吉の実質的な人質として上洛。秀吉からはかわいがられ、元服の後、秀忠と名乗るようになり豊臣姓を与えられます。その後、中納言の官位を得て、江戸に赴任します。1595年には、秀吉の養女で、織田信長の妹のお市の方と浅井長政との間に生まれた3女・お江(ごう)を正室に迎えます。
お江というと2011年のNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」を覚えている方もいるかもしれません。お江は上野樹里さんが、夫である秀忠は向井理さんが演じました。秀忠は大河ドラマの主人公になっていません。その前に奥さんが取り上げられてしまったことにも、秀忠の地味なキャラクターが表れているのかもしれません。
秀忠のダメなイメージを決定づけたのが1600年の関ヶ原の戦いです。家康本隊は東海道を進軍し、秀忠は別動隊として中山道を進んでいました。その途中、信濃国(現在の長野県)の上田城攻めを敢行。しかし、真田昌幸の術中にはまり時間をとられたことから、なんと関ヶ原の戦いに間に合わなかったのです。激怒した家康は到着した秀忠との面会を拒否。側近のとりなしでようやく許されたと言います。秀忠にとって、悔やんでも悔やみきれない大失態でした。
武将としてはともかく、政治家としては優秀
1603年、家康は征夷大将軍に就き、江戸に幕府を開きます。その2年後、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となりました。ですから、天下を決めた大坂の陣の総大将は、家康ではなく秀忠でした。
豊臣家が滅亡した後、隠居の身となっていた家康とともに、築城・改修の制限などを定めた武家諸法度や禁中並公家諸法度などを制定しました。1616年の家康の死後も大名統制を強めて外様大名を次々と改易するなど、徳川家の権力強化を進めます。朝廷への引き締めも強化し、娘の和子を天皇に嫁がせました。外国船の寄港を平戸と長崎に限定するなど、鎖国につながる政策も打ち出しています。1623年、嫡男の家光に将軍職を譲った後も大御所として実権を手放さず、1632年に亡くなりました。
こうして見ると、秀忠が将軍として実施した数々の施策がその後、徳川幕府が長期間にわたって存続する布石となったことが理解できます。秀忠は上田城攻めで失敗したように、武将としては有能ではなかったかもしれません。しかし、国を治める仕組みを作った政治家としての手腕はかなりのものといえるでしょう。群雄割拠の戦国時代を生き抜き、天下を手にした初代将軍、家康。その偉大さは戦や調略の強さです。しかし、2代将軍に求められるものは違いました。幕府を安定させる仕組み作りだったのです。それを果たした秀忠は非常に優秀な2代目でした。
企業における事業承継も同様です。初代と2代目では役割が違うことが珍しくありません。それを考えず、偉大なる創業者の存在に萎縮したり、逆に超えようとして無理をしたりすれば、会社を危うくしてしまいます。自らの役割を貫き、初代の業績を次世代につないだ秀忠の生き方は、事業承継を考える経営者にとって学ぶべきところが多いでしょう。
最後に、武将としての秀忠のエピソードに触れておきます。秀忠の遺骨には銃創(銃で撃たれた跡)が複数見つかっています。つまり、鉄砲で撃たれるほど最前線で何度も戦っていたということです。武将としては決して有能でなかったかもしれませんが、臆病者ではなかったようです。大坂の陣で、戦場に立つことなく自害した豊臣家の跡継ぎ、秀頼との違いがここにもあるのかもしれません。