信之は、知名度こそ信繁や昌幸には及ばないかもしれませんが、2人に劣らない名将です。信繁が人質として戦に参加できなかった時代にも、数々の武勲を立てています。そして、経営者として一番見習うべきは「真田家」を守り抜いたことです。大坂の陣で華々しい活躍は見せましたが、最後には散った信繁に対し、信之は、明治維新まで松代藩(現在の長野県長野市松代町)藩主を10代務めた松代真田家の礎を築きました。
真田丸では草刈正雄さん演じる昌幸に振り回される大泉洋さんのユーモラスな演技もあって、頼りないイメージもある信之ですが、実際は“肉体派”の武将だったようです。信之の着物から推定される身長は185センチメートル。当時の日本人男子の平均身長は150センチメートル台ですから見上げるような大男だったことになります。ちなみに徳川家康・秀忠の身長はともに160センチメートル程度だったといわれています。この体格にして、93歳という長寿を全うするほどの健康を誇った信之は、肉体面では戦国時代においても、突出した人物だったといえるでしょう。
それでは、その生涯を見ていきましょう。信之は1566年、真田昌幸の長男として生まれました。生まれた場所にはいくつかの説がありますが、現在の長野県上田市か甲府市といわれています。幼名は源三郎。幼い頃は武田家の人質として育ちますが、武田信勝の元服とともに元服を許され“信幸”を名乗りました。そして、父・昌幸の下での活躍が始まります。
時は16世紀末。本能寺の変で信長が亡くなり、各地で大名が領地争いを繰り広げる時代。上野国(現在の群馬県)の真田の領地にあった手小丸城は、1582年に北条氏に奪われました。ここで、17歳の信幸は城の奪還を試みます。城を守る北条側・富永主膳の軍勢は約5000。一方、信幸の手勢は約800。圧倒的に不利な状況ですが、敵勢を分断したところで火を放つなど真田家お得意のゲリラ戦術を駆使して、手小丸城の奪還に成功します。
そして、信幸の名をひときわ高めたのが第一次上田合戦でした。1585年、昌幸が築城した上田城に向けて徳川軍が攻め上がってきました。徳川軍は約7000で、迎え撃つ真田軍はせいぜい2000。ここで、信幸は二面作戦を展開。父の昌幸を上田城に置き、自らは近くの砥石城に待機します。そして、徳川軍を上田城に引きつけたところで、側面から攻撃。混乱した徳川軍は「ことごとく腰が抜け、震えて返事もできず、下戸に酒を強いたよう」と評されるほどの惨敗を喫しました。
徳川への忠誠とともに守った家族の絆
このように有能な信幸を、徳川家康は高く評価していました。そして、徳川側に引き入れることにします。家康はまず、徳川の重臣である本多忠勝の娘・小松姫を自分の養女にしました。そして、それから小松姫を信幸に嫁がせます。自らの養女を信幸の正室とすることで、信幸と縁戚関係を結んだのです。
このような家康に対し、信幸は忠誠を尽くします。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に付き、西軍に付いた父・昌幸、弟・信繁とたもとを分かつことを決めます。この件について、家康は感謝の意を表す手紙を信幸に送っています。対して、信幸は真田家にゆかりの深い「幸」の字を「之」とすることで忠義を示しました。
しかし、信之はただ徳川に忠誠を誓うだけの人物ではありません。非常に家族思いの一面も持っています。実際、真田家は仲が良かったようです。関ヶ原の戦いの後、徳川秀忠は西軍に付いた昌幸・信繁親子を処刑にすべしと主張しました。しかし、信之は関ヶ原での戦功が認められて所領として与えられた上田の地を返上してまでも、2人の助命を嘆願。それが実り、昌幸・信繁親子は高野山への配流処分で、死罪を免れました。
部下への気遣いを示した船でのひとこと
徳川の世になり、信之は1622年から30年以上にわたり松代藩主を務めました。これが、明治時代まで10代続く松代真田の礎となります。信之は武将として数々の武勲を立てただけでなく、領地を治める藩主としても優秀でした。そのポイントは、部下を大切にする心にあるのかもしれません。
ある日、信之が家臣たちと船に乗ったときのことです。岸辺に杉菜(スギナ)が生えているのを見た信之は、「お前たちは、杉菜を食べたことがあるか」と家臣たちに聞きました。家臣たちは「ございません」と首を振ります。そうすると、信之は言いました。
「それは良かった。昔、武田勝頼が没落したとき、食糧が絶え、道端の杉菜を食べたが間もなく滅びたという。杉菜を食べたことがないというのは、国がよく治まっている証拠だ」
これを聞いた家臣たちは、主君の心配りに感じ入ったということです。杉菜が成長する中で、春先に胞子を付ける特殊な茎が生えます。それがツクシです。ご存じのようにツクシは春の味覚として食用になります。一方、杉菜は漢方薬の材料として使われることはありますが、食べる習慣はほとんどありません。
組織を率いる上での心構えについて信之は次のような言葉を残しています。「兵法は譜代の臣を不憫がる、礼儀を乱さざることが軍法の要領」。これは、家臣を大切にして、家臣に対しても礼儀を守ることが戦いにおいて大切という意味です。
「常に法度の多きはよろしからず」とも言っています。ルールを多くつくって、ルールで縛りすぎるのはよくないということです。そして、「将は哀れみ深いに過ぎたるはなし」。上に立つ者は、哀れみ深すぎることはないと言っています。
信之は温厚な性格でしたが、戦では常に先頭に立つようにしていました。敵軍の様子がよく分かり、部下の表情を見ながら采配を振るうことができ、自軍の士気を高められるといったメリットを感じていたようです。こうした信之の言葉に、そして態度に、いつの時代も変わることがないマネジメントの要諦が潜んでいるのかもしれません。