2016年1月から放送されているNHK大河ドラマ「真田丸」には、大泉洋さん演じる真田信之、藤岡弘、さん演じる本多忠勝など、個性あふれるキャラクターがたくさん登場します。その中でも異彩を放っていたのが、第24話で最期を遂げた北条氏政(1538~1590)ではないでしょうか。高嶋政伸さんの狂気を感じさせるような演技は、「まさに怪演」と評判を呼びました。
有名な逸話があります。氏政が食事をする際、飯に味噌汁を二度かけました。これを見た父の北条氏康が、「毎日食事をしておきながら、飯にかける汁の量も分からないのか。北条家も自分の代で終わりだ」と嘆いたというものです。
毎日見ているご飯にかける味噌汁の量が分からないようでは、始終相対しているわけではない家臣や領民の気持ちなど分かるはずがない。氏政の代になったら北条家は続かないだろうというわけです。「真田丸」でも氏政が汁かけ飯を食べるシーンが出てきましたが、それはこの逸話をアレンジしたものでしょう。
農民が刈り取っていた麦を見て、「あの麦で昼飯にしよう」と氏政がいったというエピソードもあります。麦は刈り取ったらすぐ食べられるものと思っていた氏政の愚かぶりを示す話です。汁かけ飯の逸話も麦のエピソードも実話ではなく後世の創作だといわれていますが、古くから「氏政=愚将」という見方がされていたことを表しています。
しかし、氏政は本当に愚将だったのでしょうか。経歴を見ると、必ずしもそうとはいえないことが分かります。それどころか、一時は北条氏の領地を最大にしたのですから名将だったといっても過言ではないでしょう。
北条氏は、戦国大名の嚆矢といわれる室町中期の武将・北条早雲を祖とする名門です。小田原城を拠点として関東一円に広い勢力を誇っていました。早雲、氏綱、氏康と家督が受け継がれ、1559年に氏政が父・氏康から北条家を継ぎます。氏政21歳のときのことでした。
ここから、上杉謙信、武田信玄との同盟、決裂を繰り返しながら、力関係が刻一刻と変化する戦国の世で版図を拡大していきます。
当初、北条氏は謙信と敵対し、信玄と同盟関係を結んでいました。1561年には謙信が関東・南陸奥の諸大名とともに小田原城に攻め入りますが、氏政は父の氏康とともにこれを撃退。第四次川中島の戦いで謙信が信玄に敗れると、氏政は信玄とともに北関東を攻め、上杉家の領土を奪っていきます。
しかし、桶狭間の戦い以降の混乱により、北条氏が武田氏と結んでいた甲相同盟は決裂。信玄と対抗するために、今度は敵対していた謙信と越相同盟を結びます。複雑な戦国の世を生き抜くための権謀術数は、これで終わりではありません。1571年に父・氏康が亡くなると、氏政は武田氏との甲相同盟を復活。逆に、上杉氏との越相同盟を破棄してしまいます。越相同盟が軍事同盟としてほとんど機能していなかったのがその理由です。
越相同盟を破棄して謙信と再び対立するようになった氏政は、上野(現在の群馬県)、上総(現在の千葉県北部)、下総(現在の千葉県中部)と覇権を広げていき、上杉氏の勢力を払っていきました。
戦国の波乱はまだまだ続きます。1578年に謙信が死去し、後継者の座をめぐって謙信のおい・上杉景勝と氏政の弟で謙信の養子でもある上杉景虎が対立。この争いは景虎が自害して終わる結果となります。そして、氏政は今度は甲相同盟を破棄し、徳川家康と同盟を結びます。
さらに、氏政は関西で勢力を伸ばしていた織田信長に恭順の意を表しました。この辺りは、パワーバランスを見ながら慎重にポジションを取っていたことがうかがえます。1580年には子の氏直に家督を譲りますが、院政を敷いて力を及ぼし続けます。
信長の力を知っていた氏政は、信長が関東に滝川一益を送り込んできたときも敵対せず、織田家と婚姻関係を結ぼうとするなど友好関係を保っていました。本能寺の変で信長が死去したあとには一益と対立しましたが、弟の氏邦、氏直とともに一益の滝川軍を一掃。その後も勢力を広げていき、北条氏は240万石という戦国時代でも最大級の領土を手にします。
痛恨の判断ミス、秀吉との対立し滅ぼされる
こうして見てきたように、氏政は戦国屈指の名将である信玄、謙信、さらには家康、信長といったそうそうたるメンバーと、ある時は戦い、ある時は同盟を結び大きな領土を手にしたのです。家康、信長とまではいかなくても、武田信玄、上杉謙信と同様に後世でも名将と称えられてもおかしくありません。
しかし、信玄、謙信との決定的な違いを生んでしまったのは、最後の判断ミスです。信長亡きあとに天下統一を引き継いだ豊臣秀吉と対立して北条氏を滅亡へと導いてしまったのです。
ここでキーパーソンになったのが、上杉景勝です。景勝は、氏政の弟・上杉景虎と謙信の後継を争い、景虎を自害に追い込んだ張本人。氏政とは対立関係にあります。この景勝は、早くから秀吉と手を結んでいました。つまり、秀吉からすると、氏政は敵対する側にいます。
それでも、天下統一のため関東に手を伸ばす秀吉は、氏政にまず恭順を求めます。しかし、氏政はこれを拒否。1590年3月、秀吉は諸大名を小田原に差し向け、戦が始まりました。当初は善戦し、4月から3カ月にわたって小田原城に籠城し抵抗を試みましたが、豊臣勢の大軍にはかなわず降伏。氏政は自害して生涯を閉じ、戦国大名としての北条氏は滅んでしまいました。
氏政の生涯をこのようにたどっていると、他人事とは思えないビジネスパーソンもいるのではないでしょうか。
さまざまな企業がシェアを争っているビジネスの世界は、さまざまな武将が領土拡大のために戦いを繰り返した戦国時代によくたとえられます。つまり、氏政はその時々の情勢を的確に捉え、ライバル企業と競い、手を結びながら、順調に領土というシェアを拡大していった名経営者でした。しかし唯一、秀吉に対する判断を誤ったばかりに家が滅亡、企業でいえば倒産に至ったのです。
氏政からすれば、後から秀吉側につき、仇敵である景勝の下に見られるのを嫌ったのかもしれません。謙信、信玄という名将との戦いでも守り続けた小田原城を、秀吉を相手にしても守れると思ったのかもしれません。しかし、秀吉との力関係を冷静に見れば別の判断もできたはずです。北条は力のある家ですから、秀吉に恭順してポジションを築いていけば、状況はまったく変わっていたでしょう。
ビジネスパーソンも同じです。いくら成功を積み上げても、たったひとつの判断ミスによってそれが崩れ落ちることもあります。氏政の生涯は、その怖さを教えてくれているように思います。