NHKの大河ドラマ『真田丸』で近藤正臣さんが演じているのが、徳川家康の名参謀・本多正信(1538〜1616)です。人を食ったように飄々(ひょうひょう)としながらも、時に鋭い知略を授ける独特のキャラクターに魅せられた人も多いのではないでしょうか。
正信は家康よりも5歳年上で、重臣と主君を超えた、幼なじみの間柄でした。三河(現・愛知県)の武将・松平広忠の子として生まれた家康に鷹匠(たかじょう)として仕え始めました。以来、たもとを分かつ時期もありましたが、家康は正信に絶対的な信頼を置くようになりました。唯一、帯刀したまま家康の寝室に出入りすることを許されていた正信は、家康をいさめることができた貴重な存在でした。家康は「朋友」として正信のことを考えていたといわれるほどです。
もちろん、家康が正信を信頼していたのは、単に幼なじみだからという理由だけではありません。正信は、武骨一辺倒といわれる三河武士の中では珍しく、知将として評価された人物です。豊臣秀頼が再建した方広寺の鐘にある「国家安康」の銘文が家康の名を切断するものとして、豊臣家を断罪。大坂の陣のきっかけをつくったいわゆる「方広寺鐘銘事件」も、正信の知恵によるものといわれています。
正信の生涯を簡単に紹介します。幼い頃から家康に仕えていた正信は1560年、家康の下で桶狭間の戦いに出陣。膝に矢を受けて、以降、生涯にわたって足に不自由を抱えることになります。
家康とたもとを分かつことになったのは1563年です。一向宗に傾倒していた正信は、衆徒が家康に対抗して蜂起した三河一揆に参加。一揆が鎮圧された後も家康の元に戻らず、三河を出奔して大和(現・奈良県)の松永久秀に仕えました。
久秀に仕えた後は地方の一揆に参加するなど諸国を放浪したといわれていますが、諸説があり確かなことは分かっていません。三河に戻った時期も定かではありませんが、1582年頃までには旧知の三河の武将・大久保忠世のとりなしにより徳川家に帰参していたようです。
三河一揆では信仰上の理由から敵対関係になったものの、家康は友である正信を再び家臣として迎え入れました。また、正信は自分を許してくれた家康に忠誠を誓います。ここから家康の参謀として正信の本格的な活躍が始まります。
1590年に家康が関東に移封になると、正信は関東総奉行に就任。江戸の街づくりや江戸城の改築の指揮を執り、家康の信任を高めました。そして、豊臣家に仕えていた前田利長が家康に対して謀反を企てているとの疑いが生まれ、家康は前田討伐を準備。これが関ヶ原の戦いへとつながり、関ヶ原で勝利した家康の天下となっていきますが、利長に謀反の嫌疑をかけたのも正信といわれています。
1600年の関ヶ原の戦いで家康率いる東軍が勝利を収めると、正信は朝廷との交渉役を務め、家康の将軍就任に尽力。宗教対策でも、勢力を誇っていた本願寺の分裂を画策し、東本願寺と西本願寺に分けることに成功しました。この辺り、幅広い視野を持つ参謀・正信の面目躍如といった感があります。
1605年に家康が隠居して秀忠が二代将軍となると、正信は秀忠の側近として幕政を主導しています。駿府(静岡県)でにらみを利かす家康と秀忠のパイプ役としても存在感を示し、1607年には老中に、1610年には大老となりました。徳川幕府創生期のトップに上りつめたわけです。
晩年は体の自由が利かなくなっていましたが、1614年に始まった大坂の陣でも参謀として策を授け、徳川側を支援。1616年6月に家康が亡くなると、友の後を追うように翌月、この世を去りました。
バランス感覚が厳しい世界を生き抜く武器に
正信は知将として家康の天下統一、徳川家の権力基盤の確立に大きな役割を果たし、幕府の中で絶大な権力を手にした人物です。しかし、正信は家康の絶対的な信頼におぼれることなく、己の立場をわきまえていました。絶妙のバランス感覚をもって権謀術数が渦巻く武将の世界で生き抜き、大老という地位にまで就いたのです。
家康を徳川幕府という大会社の創業社長だとすれば、正信は創業社長の幼なじみの大番頭です。周りの妬みを買うのに十分な存在でした。関ヶ原の戦いが終わり戦国の世の終焉(しゅうえん)が見えた頃には、徳川家でも本多忠勝、榊原康政といった武功派の武将の出番が減ります。そんな中で力を振るい続けた正信を武功派の武将は“腸の腐れ者”などと呼んで嫌います。
こうした同僚の反感は、連載第15回の石田三成の失敗で紹介したように、非常に恐ろしいものです。しかし、正信はこの落とし穴にはまることはありませんでした。その大きな理由に家康の厚い信頼が続いたこともありますが、正信の処世術も見事でした。
正信は家康と近い間柄にあり、また数々の功績を挙げていたので加増の機会がたびたびありました。しかし、一切の加増を辞退する姿勢を貫き続けましたのです。正信が持っていたのは、わずか2万2千石(1万石という説もあります)。「権力」と「報酬」を切り離して、周りからの妬みを避け、自分の身を守るための正信の知恵でしょう。
このことをいかに正信が重視していたのかを示すエピソードがあります。跡継ぎである本多正純に対しても、「3万石以上は賜らないように」と説いていたのです。実際、正信の死後、15万石以上の大名になった正純は、謀反の疑いをかけられて、失脚してしまいました。
企業の中でも、上司からの信頼が非常に厚くなり、まるで特別扱いされているのではないかと思われる立場になることがあります。そうした際には、周りから妬みも受けやすくなります。ただ、たとえそれが自分の実力によるものであったとしても、周囲から反感を買わないようにするのも組織の中の処世術です。
大きな実績を上げて、トップと一心同体のごとく行動したとしても、周りとの関係にも配慮して、バランス感覚をもって自分の立ち位置を判断する。このことが個人としては競争の激しい世界を生き抜き、さらには組織も強くしていく知恵だということを、正信は教えてくれているのかもしれません。
正信が武功を第一とする同僚たちとの関係を気にしていたことを、間接的にですが感じさせるエピソードがあります。関ヶ原の合戦後、石田三成の嫡子、重家の処分を考えていた家康に対して、赦免をアドバイスしたというのです。文治派として、加藤清正、福島正則といった武断派の同僚と対立して敗れた三成の身の上に己を重ねたのではないでしょうか。