2016年12月に最終回を迎えたNHK大河ドラマ「真田丸」では、真田幸村(信繁)を中心にひとクセもふたクセもある武将たちが群像劇を繰り広げ、私たちを楽しませてくれました。
小手伸也さんが演じた塙団右衛門直之(1567~1615、生年は諸説あり)も、間違いなくそうした個性的な武将の1人です。まるでビジネスマンが名刺を配るように、「塙団右衛門参上」と書かれた木札を幸村に手渡していたシーンを覚えている人も多いでしょう。
ドラマでは創作された部分もありますが、実際の団右衛門も自己PRにたけたユニークな人物と伝えられています。後世に入ってからは軍記物や講談でも取り上げられ、愛すべき豪傑として人気を博しました。
しかし、この団右衛門は謎が多く、特に前半生については詳しい経歴が分かっていません。尾張国(現・愛知県)の織田家の家臣・塙直政の一族だったという説をはじめ、遠州(現・静岡県)で浪人をしていた説や、上総国(現・千葉県)の千葉氏の家来だったなど、出身地や経歴に関してさまざまな説があります。
その後の経歴についても、織田信長に取り立てられたが、酒を飲んで暴れた末に人をあやめ浪人となって諸国を放浪したという説や、北条家の家臣だったが小田原合戦の後に浪人となったなど諸説があります。ただ、順風満帆に出世街道を走ったのではないのは間違いないようで、後に名を上げることに腐心した団右衛門の背景がこの頃つくられたのかもしれません。
団右衛門が歴史の表舞台に現れるのは、豊臣秀吉に仕える伊予国(現・愛媛県)の大名・加藤嘉明の家臣となってからです。
団右衛門は、1592年に始まった秀吉の朝鮮出兵に主君の加藤嘉明とともに参戦。敵船を奪うなど数々の武功を上げます。嘉明から託された長さ10メートルに及ぶ日の丸の旗指物を背負いながらの活躍は非常に目を引き、この戦いで団右衛門は350石の知行を得ることになりました。団右衛門が自己PRにたけていたといわれるゆえんです。
続く関ヶ原の戦いで、団右衛門は嘉明と共に東軍の一将として参加。しかし、命令を無視して足軽を出撃させたため、嘉明の怒りを買ってしまいました。団右衛門としては、名を上げる機会を奪われ、納得がいかなかったのでしょう。嘉明から「お前には将の役を務める力がない」と諭された団右衛門は、反発。「小さな水に留まることなく、カモメは天高く飛ぶ」との漢詩を残して、嘉明の元を出て行ってしまいます。
団右衛門は小早川秀秋、松平忠吉、福島正則の元を転々とした後、京都・妙心寺の大龍和尚の所に寄宿。なんと出家して仏門に入り、「鉄牛」を名乗ります。しかし、おとなしく僧侶をやるような団右衛門ではありません。刀脇差しを帯びた姿で托鉢(たくはつ)し、檀家の不興を買ってしまいます。不殺生を旨とする僧侶が刀を差しているのですから当たり前といえば当たり前ですが、豪快かつユーモラスな団右衛門の人柄が見えるようなエピソードです。
このような団右衛門の下に入ってきたのが、江戸で幕府を開いた徳川家康と大坂の豊臣秀頼の間の緊張が高まっているという知らせでした。団右衛門は最初、関東方に付こうとしていました。しかし「関東方は人数が多いから、手柄を立てても禄(ろく)は期待できない。豊臣方で戦功を立てれば大名になれる」と考え大坂に向かい、豊臣家のために戦う浪人衆の一員になります。
そして始まった大坂冬の陣。真田丸の戦いでは豊臣軍が戦果を上げますが、徳川軍が砲撃を開始すると旗色が変わり、豊臣軍は次第に追い詰められていきました。
一世一代の機会に目立ちまくる
そんな中、団右衛門は約150人の隊を率い、幕府側の蜂須賀至鎮が陣を構える本町橋に夜襲を決行。団右衛門は本町橋の上に床几(移動用の折り畳み式簡易腰掛け)を置き、仁王立ちになって指示を出しました。そして、「本夜の大将は塙団右衛門直之也」と書いた木札をバラまきました。真田丸で木札を配ったシーンは、このエピソードが元になっていると思われます。夜襲を、自分の名を売るための格好の舞台としたのです。
この戦いで、団右衛門の隊は蜂須賀隊を指揮していた中村重勝のほか100人以上の首を取り、団右衛門は見事に名を高めます。
翌年の大坂夏の陣。前哨戦となった樫井の戦い(1615年4月29日)で、団右衛門は和歌山城から北上する徳川方の浅野長晟隊を迎え討ちます。同じ豊臣方の岡部隊も樫井に向かっていることを知った団右衛門は、先鋒(せんぽう)を取るため敵陣に一騎で乗り込んでいきます。旗印には「塙団右衛門」の文字。周りに名を知らしめることを忘れません。
敵の軍勢に囲まれながらも、馬上から兵を次々と倒していく団右衛門。しかし矢に射られて落馬。やりで突かれて絶命しました。
司馬遼太郎に「言い触らし団右衛門」という塙団右衛門を主人公にした短編小説があります。この作品の中で、団右衛門は次のように言っています。
「さむらいとは、自分の命をモトデに名を売る稼業じゃ。名さえ売れれば、命のモトデがたとえ無うなっても、存分にそろばんが合う」
まさに、団右衛門の人生はこの言葉通りのものだったといっていいでしょう。名門の出でもなく、出自も明らかになっていない浪人だった団右衛門が、秀吉の朝鮮出兵を皮切りに戦功を上げ、折に触れて名を売り、豪傑として軍記物や講談で取り上げられる存在になり、平成の世のテレビドラマで重要な役を果たすようになりました。
団右衛門がその生涯を通じて貫いたのは、自分の名前を売ろうという強烈な意志です。そして、そのためには名前を書いた木札をまくなど自己PRを欠かしませんでした。
これは、現代のビジネスパーソンにも通じるところのある素養です。もちろんロクな仕事をせずに自己PRばかりしているのは論外ですが、大きな仕事をしているときはそのことを周りにしっかり知ってもらう。そのことが自分の評価を高め、次の仕事へのステップになるという側面は確実にあるはずです。
私たち日本人には、仕事に関しても控えめな態度をよしとする傾向があります。もちろんつつましさは大切ですが、塙団右衛門という強烈な個性を見たとき、それだけが美徳ではないことにも思い至るのです。