1月に始まったNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」。その中で抜群の存在感を放っているのが、落語家の春風亭昇太さん演じる今川義元です。義元役の昇太さんは、おしゃべりでにこやかな「笑点」の司会ぶりとは打って変わって、ほとんど言葉を発しません。白塗りのメークとも相まって、異様な雰囲気を醸し出しています。義元には公家かぶれで軟弱な武将というイメージが付きまといますが、それとはかけ離れたイメージになっています。
こうしたユニークなキャラクターはドラマの演出かもしれませんが、近年、実際の義元は、政治力、軍事力に秀でた優れた武将だったことが知られるようになり、評価が上がっています。
駿河(現・静岡県東部)を拠点としていた今川家の版図を近江(現・静岡県西部)、三河(現・愛知県東部)、尾張(現・愛知県西部)にまで広げていき、「東海の覇王」と呼ばれた義元。桶狭間の戦いで織田信長に敗れることがなかったら、日本の歴史が大きく変わったともいわれています。
義元は、今川氏親(うじちか)の五男として1519年に生まれました。将軍継承位に名を連ねるほどの名家・今川家の嫡男として生を受けましたが、長兄に氏輝、次兄に彦五郎がいたために家督を継ぐことはないと思われていました。
4歳で出家した義元は地元・駿河にある臨済宗の善得寺に入り、禅僧の太原雪斎(たいげん・せっさい)に師事。雪斎と共に京に上り、学識を深めていきます。この雪斎が、その後も長く義元を支えていく重要な人物です。
氏輝の命で駿河に戻っていた1536年、長兄の氏輝と次兄の彦五郎が同じ日に急死するという事件が起きます。この事件には陰謀説がささやかれていますが、その真偽はともかく、2人の兄が相次いで亡くなったことで、本来家督を継ぐことがないはずの義元が今川家の当主に収まることになりました。
東を固め、京へ向かうも信長に敗れる…
ここから、政治力と軍事力を駆使しながら義元は一大大名にのし上がっていきます。義元は1537年、武田信虎の長女・定恵院を正室に迎え、武田家と同盟関係を結びました。しかし、このことで関東の北条家と対立。攻め込んできた北条氏綱に駿河の河東地域を奪われてしまいます。
長く続く戦いの中で、義元は策略を立てます。まず、北条家と対立する上杉憲政と同盟を結び、関東の北条家を東西から挟み込む体制をつくります。さらに姻戚関係にある武田家、足利晴氏らを取り込み、北条軍を包囲。北条氏康を追い込み、1545年、河東の地を奪還することに成功しました。
北条を抑え込んで東の関東を安定させた義元は、西に勢力を伸ばしていきます。まず、三河。尾張から三河に入ってきた織田信秀と相対しますが、義元は信秀の織田軍を破ります。そして1551年に信秀が病没。義元は織田家が勢力を持っていた尾張に覇を伸ばし、駿河から尾張まで東海道の要衝を押さえた「東海の覇王」として地位を確立します。
また、長く対立していた北条家と武田家との間に姻戚関係を結び、甲斐(現・山梨県)の武田、相模(現・神奈川県)の北条と「甲相駿三国同盟」を1544年に締結。東での懸念材料であった北条との関係を修復し、西に勢力を伸ばして京都へ迫る地盤を固めました。
そんな義元を待ち受けていたのが、信秀の子・織田信長でした。1560年、西に軍を進める義元は織田軍の丸根砦、鷲津砦を攻略。尾張の桶狭間に陣を敷きます。しかし5月19日、豪雨の降る中、織田信長率いる織田軍が桶狭間の今川軍を急襲。兵力が今川軍の10分の1ほどだったといわれる織田軍が、奇跡的な勝利を収めます。この日本史上名高い「桶狭間の戦い」で義元は首を取られ、42歳で生涯を閉じました。
名参謀が存命だったら桶狭間の勝敗は?
義元の生涯を見ていて感じるのは、参謀の重要性です。桶狭間で敗れたとはいえ、駿河から尾張まで版図を広げて東海道の覇権を握り、「海道一の弓取り」と恐れられた義元。その影には、太原雪斎の存在がありました。実は義元が4歳の時から面倒を見た雪斎は、幼少の頃の養育係であっただけでなく、今川の家督を継いでからも義元に付きます。この雪斎は大変な知略家でした。
武田信虎の長女・定恵院を義元の正室に迎え、長く対立関係にあった武田信虎と今川との関係を修復したのは雪斎の知恵によるもの。1550年に定恵院が死去すると、雪斎は義元の長女・嶺松院を武田晴信の子・義信の正室として嫁がせて武田との関係を維持します。1554年の甲相駿三国同盟は今川、北条、武田がそれぞれ姻戚関係を結ぶことで成立しましたが、これも雪斎の手腕によるものといわれています。
また雪斎は軍師としても優れていました。1547年に戸田家の居城だった三河の田原城を攻め落としたのも、翌年に織田信秀を破ったのも雪斎の功績という評で定まっています。
知略面でも軍事面でも優れた才能を見せた雪斎は、1555年に亡くなります。そして、その5年後に巡ってきたのが桶狭間の戦い。雪斎が生きていれば、桶狭間で今川軍があのような結果を見ることはなかった可能性があります。
義元は、名家・今川の嫡子。父・氏親の「今川仮名目録」を補う形で「仮名目録追加21条」を制定して内政にも力を発揮するなど、優れた手腕を持つ人物でした。そして背後に、雪斎という名参謀が常に控え、二人三脚で力を尽くしたからこそ、今川家の勢力を大きく拡大することができたのです。
リーダーの資質を持つ人物がいても、それだけでは組織は発展しにくいものです。もちろん、参謀としての資質を持つ人物だけがいても組織は発展しません。リーダーと力量のある参謀が両輪となって進むと、組織は大きな力を持つ。このことを、義元の足跡をたどっていると教えられるように思います。