群雄が割拠し、幾多の戦いが繰り広げられた戦国時代。その中でも最高の軍師との呼び声が高いのが黒田官兵衛です。
あの豊臣秀吉が「さも末恐ろしきは、官兵衛よ」と言ったというエピソードだけでも、官兵衛のすごさが伝わってきます。
1546年、播磨国(現・兵庫県)姫路に官兵衛は生まれました。父は、播磨の大名・小寺政職に仕える黒田職隆。官兵衛も、幼少の頃から近習として政職に仕えます。
官兵衛は6歳の頃から浄土宗の僧・円満和尚の下で勉学に励むようになりました。文学青年だった官兵衛は「源氏物語」などに興味を示しますが、円満はこれをいさめ、武士としての心得を授けます。ここで兵法学に親しんだことが、後の官兵衛の礎となります。
官兵衛は1567年に家督を継ぎ、姫路城を守る姫路城代に。そして1575年に織田信長に謁見し、秀吉の配下に入りました。
官兵衛が軍師としての才を示し始めたのは、1581年、秀吉の中国攻めに帯同した時のことです。秀吉はその前年から因幡国(現・鳥取県)の鳥取城に攻め入っていましたが、激しい抵抗に遭い退却していました。そして翌年、2万の兵を率いて再び鳥取城に迫ります。
毛利家の重臣・吉川経家が守る鳥取城を攻め落とす方策は何かないか――。
ここで官兵衛は兵糧攻めを秀吉に献策します。それを採用した秀吉は米を高値で買い占めて周辺を米不足に陥らせます。さらに城周辺の村を襲撃して村人を鳥取城に追い込み、城内での食糧消費を加速させます。
この策によって城内の食糧は底を突き、草を食べるような状況になりました。草も尽きると壁に塗り込められたわらまで口にするような極限状態に陥ります。この「鳥取の飢え殺し」として知られる徹底的な兵糧攻めにより、3カ月で鳥取城は落城。官兵衛は軍師として一目置かれることになりました。
危機に冷静な献策をして軍師の役割を果たす…
翌年には中国地方の覇権を巡って秀吉軍は毛利軍と備中(現・岡山県)の高松城で相対します。ここでも、官兵衛は軍師としての力量を見せます。
備中高松城は、低湿地にある沼城。城の周囲の土地は水を含み、秀吉軍の兵や馬が攻め入ることができません。3万の秀吉軍は足踏み状態となります。それを打開する官兵衛の策は、問題点を逆手にとって、活用してしまおうと大胆なものでした。「我々は水によって苦しめられている。ならば、相手も水によって苦しめればよいのではないか」。つまり、水攻めです。
全長約3km、高さ約7mの堤防を築き、城近くを流れる川から水を引き込みました。これで、備中高松城は水の中に浮いている状態となり完全に孤立。毛利家から援軍に駆け付けた小早川隆景、吉川元春らも城に近づけません。
この備中高松城における攻防戦の最中――、織田信長が京都・本能寺で明智光秀に討たれたとの知らせが入りました。本能寺の変です。突然の信長の死に遭って動揺する秀吉に、官兵衛は「これで天下取りへの道が開けましたな。光秀を討ちましょう」とささやいたといいます。
織田家の未曽有の危機に、将来を見通した冷静なこのひと言で、秀吉は改めて官兵衛の恐ろしさを知ったといいます。官兵衛の進言に従い秀吉は山城国(現・京都府)に猛スピードで取って返し、山崎の戦いで光秀を破りました。
信長亡き後の戦国の世で、秀吉は天下統一に向かって突き進みます。その中でも官兵衛は重要な役割を果たします。秀吉は、長宗我部元親が統一した四国攻略の先鋒(せんぽう)隊として官兵衛を指名します。
元親は讃岐国(現・香川県)の戸田城に兵を集め、官兵衛の軍を待ちました。これはワナ。戸田城に官兵衛を引きつけ、阿波国(現・徳島県)白地城の主力部隊が背後から襲うというのが元親の作戦でした。
しかし、官兵衛はこの作戦を見抜き、戸田城を攻めず阿波に進軍。秀吉の弟である羽柴秀長軍と合流し、岩倉城など元親傘下にあった城を次々に攻め落とし、2カ月で四国を制覇しました。
1586年には九州征伐に参戦し島津家打倒に力を発揮します。官兵衛は1589年に長男の長政に家督を譲渡しますが、側近として秀吉に仕え続けます。秀吉の死後は1600年の関ヶ原の戦いで東軍にくみし、長男・長政とともに戦功を上げるなど時代の荒波を見事に乗り切り、1604年、京都で亡くなりました。
叱ったり、脅したりしなくても部下は付いてくる
軍師として数々の策略を授け、秀吉の天下統一に大きく貢献した官兵衛。しかし、兵糧攻めや本能寺の変の際の助言などにより、冷徹で利を求めるイメージがあるかもしれません。
しかし、官兵衛が名軍師として力を発揮できた大きな要因には、冷静な作戦立案能力を持っていただけでなく、人間の本質を熟知し人を動かすコツを身に付けていたことが挙げられます。
官兵衛は、次のような言葉を残しています。「自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせなさい。そうすれば、叱ったり脅したりしなくても自然に威は備わる」
人の上に立つ者は、まず自分の行いを正し、何が正しくて悪いことなのかを見せなさい。そうすれば、叱ったりしなくても威厳は自然に備わり、人が付いてくるということです。実際、官兵衛は家臣を手討ちにしたり、死罪を命じたりしなかったといわれています。恐怖によってではなく、威厳によって臣下を動かした人物だったのです。
臣下に対して「おまえは、部下を夏の火鉢や日照りの雨傘にしている。改めよ」と注意したエピソードもあります。夏の火鉢、日照りの雨傘というのは、役に立たないことの例えです。役に立たないところに部下を置いていてはいけない。適材適所で、力を発揮できるようにしろということです。
こうした官兵衛の姿勢は、現在のマネジメント術においてもそのまま当てはまることでしょう。経営者たる者は、戦略を立てる知力はもちろん必要です。しかし、それだけでは十分ではなく、行動を正すことで自然に部下が付いてくるようにして、適材適所で力を発揮させなくてはならないのです。
戦略を立てることは経営者の仕事ですが、それが部下によってきちんと実行に移され、成果が上がらなければ意味はありません。そのことを知っていた希代の軍師、官兵衛の人使いは、非常に参考になるはずです。