秀吉の出自に関しては、詳しいことは分かっていません。生年月日についても1536年1月1日、1537年6月15日、1537年2月6日と3つの説があります。また、父が木下弥右衛門であることは分かっていますが、弥右衛門の身分についても諸説あります。
秀吉自身が父について言明しておらず、後に秀吉は「あやしの子」と記されたところを見ると、いずれにしても高い身分の出ではなかったようです。このあたり、名門・甲斐源氏の嫡流である武田信玄、越後(現・新潟県)の守護代を務めた長尾氏の流れをくむ上杉謙信らと比べても、秀吉の立場はまったく違っています。そこから天下人にまで上り詰めたのが秀吉でした。
秀吉は幼少の頃、遠江(現・静岡県)の頭陀寺城(ずだじじょう)城主・松下加兵衛に奉公し、その後、織田信長に仕えます。そして信長の躍進とともに出世をしていくことになりますが、それを支えたのは徹底した「部下道」ともいうべきものでした。
秀吉は、小者として信長に仕え始めます。小者というのは、住み込みで雑用を行う奉公人。最初は、馬の世話をする馬飼いの役をあてがわれました。小者の中でも、下の者の役割です。このとき、秀吉は17、18歳。決して子どもではありません。
この馬飼いの仕事を、秀吉は見事にこなしていきます。昼夜、飼料が不足しないように気を配ります。また、暇があれば馬の毛並みを整えていたため、しばらくすると馬がつややかに光を放つようになりました。これが信長の目に留まり、秀吉は草履(ぞうり)取りを命ぜられます。秀吉の出世の第一歩です。
草履取りになってからのエピソードはあまりにも有名です。
冬の夜、信長が出掛けるため草履を履くと、草履が温かくなっていました。「さては尻の下に敷いていたな」と信長が問いただすと、「信長様の足が冷えないように背中に入れて温めておりました」と秀吉は回答。まだ不審に思う信長に衣服を脱いで見せたところ、背中には草履の鼻緒の跡がくっきりとついていました。感心した信長は、秀吉を草履取りの頭としました。さらに一段の出世です。
このエピソードも懐に入れて草履を温めていたなど、さまざまなバリエーションがありますが、いずれも秀吉の気遣いの細やかさから生まれた話と見ていいでしょう。
秀吉の言葉に「人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない」というのがあります。このエピソードに即していえば、「草履を温めろと言われてからやるのは、本当の気遣いではない。言われる前に考えてやれ」ということになるでしょう。この草履のエピソードは後世の創作である可能性もありますが、いかにも秀吉ならありそうな話です。
その後、秀吉は武将として取り立てられ、信長の下で数々の戦に加わり武勲を上げていくことになります。信長は、配下の者に対して厳しかったことで知られる武将。良くいえば実力主義で、悪くいえば恐怖政治。ミスを犯せば首が飛ぶのも当たり前です。そうした中、出世し続けたのには、秀吉の武将としての実力とともに、「主人は無理を言うものだと知れ」「猿・日吉丸・藤吉郎・秀吉・太閤、これもまた皆が嫌がるところでの我慢があったればこそ」という徹底した部下道がありました。
部下のミスを責めずに人を垂らし込む才能
秀吉は信長に仕えるとともに、武将として自らも配下を持つようになります
ここで、それまで重ねてきた経験がフルに発揮されます。なにせ、馬飼いからスタートして出世をしてきた秀吉。部下の気持ちは、手に取るように分かります。「人垂らし」秀吉の本領発揮です。
秀吉は長きにわたり信長に仕えましたが、信長を崇め奉っていたわけではありません。「信長公は勇将なり。良将にあらず」と冷静に評したようです。敵味方を恐怖で支配するのは、良い武将ではない。結果的に身を滅ぼすことになる。このように考えたのでしょうか。秀吉は、上司として信長と違った道を歩みます。
秀吉は、部下がミスをしてもただそれだけで責め立てるようなことはしません。小牧・長久手の戦いで徳川家康と戦ったときのこと。秀吉の配下にいた九鬼嘉隆は、徳川方の激しい反撃に遭い、退却を余儀なくされました。このことを嘉隆がわびると「あのような状況で帰還できたのは何よりの手柄である」と秀吉は嘉隆のことを褒めました。この後、嘉隆は長く秀吉に尽くすことになります。
秀吉は、「主従や友だちの間が不和になるのは、わがままが原因だ」と言い、配下の人間との関係に気を配りました。そして、こうも言っています。
――「およそ主人たるもの、一年家来を使ってみて役に立たないときは暇を出すのがよい。家来としては、三年勤めて悪い主人だと思えば暇を取るのがよい」
これは、役に立たない家来もある程度は我慢して使ってみるべきであり、家来も無理を言う主人も、それなりに我慢して仕えるべきということでしょう。互いにわがままを言わず我慢し合う、それでもダメならすっきり別れるのが互いのためと割り切るこの姿勢は現代にも通じるでしょう。
配下を持つリーダーになっても、部下からの視点を忘れない。秀吉の大出世の根底にあったのは、やはり部下道でした。