「独眼竜」の異名を持つ伊達政宗は、豊臣秀吉や武田信玄らと並び、戦国武将の中でも屈指の人気を誇る武将です。隻眼に眼帯を付けた政宗の姿はNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」などを通じて広く親しまれています。
政宗には、数々の戦果を上げて奥州の領土を拡大した勇猛な武将というイメージがあるかもしれません。しかし、そうした側面がある一方、独特の慎重さ、バランス感覚を持っていました。
例えば、秀吉への対応に性格が色濃く表れています。1595年、政宗は会津の蘆名義広を破り、南奥州を制覇します。しかし、これは関白となった秀吉が1585年に出した「惣無事令(そうぶじれい)」に反するものでした。惣無事令は、大名間の戦争を禁止しています。この件で秀吉は政宗を非難する書状を出し、政宗のほうでも弁明の書状を送りますが、両者の間に不穏な空気が流れます。
そして天下統一をめざして東に勢力を進める秀吉は、小田原城を本拠とする北条氏と対立。戦火を切ることになります。関東の大物・北条氏との戦いに当たり、秀吉は前田利家、加藤清正など豊臣家子飼いの家臣を集結させました。そして、傘下に収めていない東北の武将にも参戦を呼びかけました。
秀吉に抗戦するか、臣従するか。ここで政宗は判断を迫られます。「伊達家は、源頼朝以来の奥州探題(幕府の役職)。秀吉ごとき成り上がり者に屈することはない」という声が重臣たちから出てきます。
しかし、異なる意見を持つ者もいました。参謀の片倉景綱です。「秀吉勢は天下の大軍。夏の蝿のように、いくら追い払ってもたちまちたかられることになるでしょう」。こうした現実的な景綱の意見を取り入れ、政宗は秀吉の下に駆け付けることを決断します。
しかし、政宗が小田原に駆け付けたのは6月5日のこと。3月に開戦した秀吉と北条氏の戦から2カ月以上たっていました。その間に母・義姫が政宗の食事に毒を盛るという事件があったのですが、その影響だけでなく、さらにじっくりと状況を見ていたフシがあります。
例えば、徳川家康の次女・督姫(とくひめ)は北条の当主である北条氏直に嫁いでおり、小田原攻めの間に家康が秀吉に謀反を起こし、北条側に付くのではないかということがまことしやかにささやかれていました。もしも、家康が北条と組み政宗が加勢すれば、天下統一に突き進む秀吉に対抗できる可能性があったのです。伊達家の命運を左右する一大局面で、政宗は状況をギリギリまで見ていたのでしょう。
結局、家康は秀吉から離れることなく、北条との攻防は秀吉軍優勢のまま進みます。そうした中、ようやく政宗は小田原に到着します。あまりにも遅くなったため、政宗は白装束を身にまとい、秀吉に殺される覚悟で面会したといわれています。その後、波乱はなく秀吉軍に囲まれた小田原城は降伏開城することになりました。
こうして、恭順を示したものの、政宗は秀吉の下でおとなしくしているわけではありませんでした。小田原攻めに参戦しなかったため没収された領地をめぐって政宗は暗躍します。秀吉臣下の木村吉清が新たに経営を始めたこの地で、一揆が勃発。政宗は秀吉臣下の蒲生氏郷と共に鎮圧に当たりますが、裏で糸を引いていましたので鎮圧用の銃も実は空砲でした。
ところが、一揆を扇動する政宗の書状が見つかってしまい、たくらみが露見してしまいます。そして、政宗は京都の聚楽第にいた秀吉の前に引き立てられます。書状には政宗の鶺鴒の花押(せきれいのかおう)があり、本人が書いたものであることを示しています。それでも政宗は「本物の花押には鶺鴒の目のところに小さな針穴が開けてあります。この書状の花押には針穴がありません。偽物です」と申し開きをして粘ります。
恐らく、秀吉も政宗の弁明がうそだということは分かっていたと思われます。しかし、ここで追い詰めるよりも、奥州で実力のある政宗を利用したほうが得策だと判断したのでしょう。秀吉は無罪放免を言い渡し、政宗に鎮圧を命じます。
命に従い一揆を鎮圧した政宗に対し、秀吉は政宗が所有する6郡を没収し、褒賞として16郡を与えました。7郡増えて政宗が得をしたように見えますが、実は石高では14万石も減っています。秀吉は政宗のメンツを潰すことなく、警告を与えたわけです。
このように政宗は秀吉に恭順を表しながらも、おとなしく言いなりにはならないことを示しました。1つ間違えばお家取り潰しにもなりかねないギリギリのやり取りですが、絶妙なバランス感覚で政宗は秀吉との関係を構築しました。
平常心を心がけ外敵との駆け引きを繰り返した
こうした政宗のバランス感覚は、秀吉の死後、次の天下人である家康との間にも発揮されます。家康は1600年、謀反の疑いありとのことで会津の上杉景勝の討伐を決定します。政宗が秀吉に没収された6郡は、その後上杉の領地となっていました。この6郡を与えて所領を100万石とすることを条件に、家康は政宗に出陣を要請します。
ここでも、政宗は状況を見て、家康に付く現実的な判断を下します。「東の関ヶ原」と呼ばれるこの戦いで、政宗は伯父の最上義光とともに上杉方と相対します。しかし他方で、政宗は小田原攻めに参戦しなかったため秀吉に領土を取り上げられた和賀忠親をけしかけ、一揆を扇動し、自らの領土拡大を企てます。
こうした策動が原因で、家康は100万石の約束をほごにしてしまいます。しかし、対上杉戦では政宗に戦功があります。家康にはそれ以上のことはできません。このあたりが、政宗の絶妙なバランス感覚です。
徳川の世になると、政宗は初代仙台藩主として藩の発展に尽くします。外様大名ではありましたが、政宗は徳川家と親密な関係を築き、三代将軍・家光は政宗を「伊達の親父殿」と呼んで慕いました。そして、江戸260年間を通じて伊達家が仙台藩主を務めることになります。
政宗は、奥州に君臨する伊達家を父・輝宗から受け継ぎました。そして情勢を慎重に判断し、秀吉・家康とその時々に勢いのある武将に表立っては服従しつつ、自分の利益も最大限に追求することを忘れませんでした。それにより、伊達家を存続・発展させていきました。
これは、会社を継いだ経営者が状況を判断しながらその時々で的確な相手とアライアンスを組み、しかもアライアンスを組んだ相手に主導権をすべて渡すことなく、自分たちの裁量権を確保しながら発展していく様子を連想させます。
そして、このような政宗が大切にしていたのが平常心でした。
ある日、高価な高麗天目茶碗を鑑賞していた政宗は、手を滑らせ茶わんを落としそうになります。何とか落とさずに済みましたが、政宗はその茶わんをたたき割ってしまいます。落としそうになったとき、動揺した自分に腹を立てたからだといわれています。
大坂冬の陣で馬に乗って見回りをしているとき、銃弾が近くに飛んできて思わず身を引いたのを残念に思い、銃弾がひっきりなしに飛んでくる場所にしばらくたたずんでから引き上げたという話もあります。
“伊達者”という言葉の元になったという説もあるように、派手好きで豪快なイメージのある政宗は、実は、平常心を大切にして現実的に物事を見ていたからこそ、一歩間違えば家の存亡に関わる戦国の世でも時勢を的確に判断して家を発展させることができたと思えるのです。時代の流れに飲まれた武田、北条、上杉といった戦国大名との差はそこにあったのではないでしょうか。