当時の男性の平均身長が157cmほどだったところ、利家は182cmの大男だったという記録が残っています。その頃から背が高く、派手なこしらえのやりを持って5歳年上の信長と連れ歩く姿は、人目を引いたようです。今でいうと、派手な格好をした中学生、高校生の不良が一緒に街を歩くような感じでしょうか。悪友に近い主君と家臣です。
利家は血気盛んでケンカっぱやく、また「やりの又左衛門」の異名を持つやりの名手でもありました。信長に仕え始めた翌年の初陣では、首級(しゅきゅう)1つを取る功を上げています。
その後も、信長と弟・織田信勝が家督を争った稲生(いのう)の戦いでは右目の下を矢で射抜かれながらも相手を討ち取り、信長が岩倉織田氏の織田信賢と戦った浮野の戦いでも戦功を上げるなど、信長の下で名を高めていきます。
しかし、ここで事件が起きます。当時、大名の周りには、同朋衆と呼ばれる芸能や雑役をつかさどる僧形の者が仕えていました。父・信秀から家督を継いだ信長にも同朋衆がついています。
同朋衆の中に、信長から寵愛(ちょうあい)を受けていた拾阿弥(じゅうあみ)という者がいました。この拾阿弥と利家はソリが合わず、日ごろから諍(いさか)いが絶えません。拾阿弥の侮辱を腹に据えかねた利家は、ついに信長の面前で拾阿弥を切り捨ててしまいます。この事件により、利家は織田家への出仕禁止。利家は浪人の身となってしまいます。
この頃までの利家には傲慢な振る舞いも多く、人々に避けられることも少なくなかったといいます。しかし、織田家に出仕できず、禄(ろく)を失って無収入となったこのときの経験はかなりこたえたようです。
利家は「ともかくお金を持てば、人も世の中も恐ろしく思わぬものだ、逆に一文無しになれば世の中は恐ろしいもの」との言葉を残していますが、浪人時代の実感から来たものでしょう。そしてこの後、やんちゃな傾奇者から人望厚い名将へと変貌を遂げていきます。利家は失った信長の信頼を回復するため、1560年、無断で桶狭間の戦いに参加。朝の合戦で首級を1つ、本戦では2つの首級を挙げる戦功を立てます。が、信長の許しは出なかったのです。
そこで翌1561年、信長が斎藤龍興と相対した森部の戦いにも無断参戦。ここで、足立六兵衛という怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げます。そして六兵衛の首級を持参して信長の面前に出ると、ようやく帰参を許されました。
小姓から23万石の大名に大出世
以降、信長の命で前田家の家督を継いだ利家は、姉川の戦い、春日井堤の戦い、長篠の戦いといった信長の天下統一に向けた一連の戦で活躍を見せます。そして、信長から能登一国を与えられて初代加賀藩主となりました。小姓から23万石の大名という大出世です。
能登を与えられた翌年、幼い頃から仕えてきた信長が本能寺で暗殺され、その後、利家は秀吉に仕えるようになります。拾阿弥の事件後、信長の信頼を取り戻した利家ですが、利家は秀吉とも深い信頼で結ばれました。実は利家と秀吉は屋敷が隣同士だったことがあり、家族ぐるみの付き合いをした間柄。裸でお互いにきゅうを据え合うほど、親しい関係にありました。
秀吉の腹心として、利家は北条征伐などに参加。秀吉の跡継ぎ・秀頼が生まれると後見人に任じられ、秀吉が五大老の制度を設けると大老の1人に任命されるなど、秀吉との深い関係は続きます。信長、秀吉という戦国武将の中でもアクが強く、力のある2人から深い信任を得た利家は、やはりただ者ではありません。
人に慕われることの重要性
1598年に秀吉が没すると、諸大名は利家派と家康派に分かれました。利家側には上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家ら豊臣家の大老をはじめ、加藤清正や浅野幸長、細川忠興ら武断派の諸将、石田三成らの奉行衆など多くの武将が味方しました。
一方の家康側には、姻戚関係を築いていた伊達政宗、蜂須賀家政、福島正則など。利家に付く武将のほうが多く、利家の人望をうかがわせます。利家は豊臣家の重臣としてだけでなく、若い武将たちから歴戦の勇将として慕われていたのです。
利家の存在が重しのようになり、さすがの家康も簡単に動くことができません。ところが、秀吉の死から8カ月後に利家は病没。家康はこの機を逃さず加賀征伐に乗り出し、関ヶ原の戦いへと歴史が大きく動いていくことになります。
やんちゃな傾奇者から名将へと、利家は大きく成長していきました。その過程で大きな意味を持ったのは、やはり拾阿弥の事件だったのではないでしょうか。さまざまないきさつがあったとはいえ、感情的になって主君の寵愛する人間を切り捨てたのは大失態です。
その後の浪人生活で、利家は熱田神宮の社家である松岡家の保護を受け、自分を見つめる時間を持ちます。そして信長の信頼を回復すべく、行動を開始します。
信長にとっての利家になるために
仕事をしていると、大きな失敗をする場面が誰にも訪れるでしょう。そのときどのように振る舞うべきなのか。利家の行動はヒントを示してくれているように思います。
また、この一件を上司という視点で考えるのも興味深いと思います。利家が拾阿弥を切り捨てた後、信長は利家を成敗することもできました。しかし柴田勝家らの取り成しもあり、出仕禁止に処分をとどめます。
その後、利家が桶狭間の戦い、森部の戦いに無断で参戦したときも、信長は利家のことをいかようにもできたはずです。しかし、結局信長はこれらの戦いでの戦功を認めて利家を許し、再び自分に仕えるように言い渡します。そして、利家は信長の天下統一に向けて大きな力となり、大武将へと成長していくのです。
信長にとって、利家は部下です。その部下が大きな失敗をしたとき、そこで切り捨てるのではなく、信頼回復のチャンスを与える。そしてそこで成果を見せたら、しっかり評価する。そのことが部下との関係性を強めることになり、部下の成長を促すことにつながる。このようなことを、利家の拾阿弥の一件は考えさせるのです。