戦国武将に学ぶ経営のヒント(第30回)減税で民を喜ばせた最初の戦国大名、北条早雲

歴史・名言

公開日:2017.11.14

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 さまざまな戦国武将を取り上げてきました本連載ですが、今回は「最初の戦国大名」ともいわれる北条早雲を紹介します。

 戦国大名とは、一般的に中央政府である幕府の支配から逃れ、実力で地方を支配し、支配地域を広げていった領主のことをいいます。15世紀末にそれを成した早雲は、戦国大名の先駆けと呼ぶにふさわしい存在です。さらに早雲は単に武力で支配を広げたわけではありません。そこには理想がありました。

 最初に北条早雲を紹介しますと書きましたが、歴史に詳しい方は「北条早雲」という呼び方が正確ではないことをご存じでしょう。早雲は「北条」とは名乗っていません。北条性になるのは息子の氏綱の代になってから。早雲自身は伊勢宗瑞(いせ・そうずい)と名乗っていました。しかし、この原稿では、なじみのある「北条早雲」を使わせてもらいます。

足利家に見切りをつけ実力で領土を奪う

 早雲の生年は1432年、1456年と諸説あります。出自についてもハッキリしていませんが、8代将軍・足利義政の申次衆を務めていた伊勢盛定の子として、備中国(現・岡山県)の高越城に生まれたという説が有力です。申次衆というのは、奏聞などを将軍へ取り次ぐ要職です。その関係で、早雲は京都で義政の弟・足利義視に仕えるようになります。

 早雲が義視に仕えていた1467年、応仁の乱が起こります。足利家の後継問題に端を発した騒動は細川勝元と山名宗全の全面的な戦に発展し、京都を焼け野原にする大乱となりました。今でも、京都の人が「先の戦は大変だった」というときは、第二次世界大戦ではなく応仁の乱のことを意味するという話があるほど京都は壊滅的な打撃を受けます。

 折からの飢饉(ききん)もあり、京都の街には餓死者があふれました。しかしこの状況を前にしても義視は保身に走り、有効な手を打てません。失望した早雲は、義視の元を去ります。

 1483年、将軍の座を継いだ足利義尚の申次衆として再び足利家に仕えるようになりますが、いまだ京都は応仁の乱の尾を引いており、民が苦しんでいる状況は変わりません。民衆が幸せにならないこのような国でいいものか−−。このときの思いが、「最初の戦国大名」を生む背景になります。

 結局、義尚の下も去った早雲は、妹が嫁いでいた駿河国(現・静岡県)の今川家に出仕しました。今川義忠の没後、今川家でも家督争いが起きますが、早雲はこの騒動を見事に収拾し、その功績により駿河の興国寺城を与えられます。

 そして1493年、隣国である伊豆国(現・静岡県)にいた足利政知の長男・茶々丸を襲撃。伊豆国の覇権を奪い取ります。戦国時代の始まりとされる出来事です。これにとどまらず、早雲は1495年、大森藤頼を討ち小田原城を奪取。この小田原城は、室町末まで続く北条家五代の根拠地となります。早雲はさらに相模の豪族である三浦氏を攻め立て、滅亡に追い込み、相模全域を手中に収めます。

減税を実施し、民衆を大事にする政策…

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