戦国時代には、幾多の武将が覇権をめぐって争いを繰り広げました。そこで必要だったのは武力だけではありません。知力、政治力、統率力が覇権の行方を左右しました。そして、時には好機をつかむ力が運命を大きく変えたことを感じさせるのが柴田勝家です。
勝家は1522年(1526年説、1527年説あり)に尾張国(現・愛知県)で生まれました。織田信長の家臣として知られている勝家ですが、信長に仕えるまでにひともんちゃくありました。
黒染めの勝家が信頼を得るまでの道のり
勝家は若い頃、信長の父・織田信秀に仕えていました。1551年に信秀が亡くなると信長が織田家の家督を継ぎますが、勝家は信長ではなく、信長の弟・織田信勝の家臣になります。そして1556年、信長を支援していた斎藤道三が死去すると、勝家は自分が仕える信勝を織田家の当主にしようと、信長に対して信勝と共に兵を挙げるのです。
この戦いに敗れた勝家は、墨染めの衣を着用して信長に謝罪。死罪になっても不思議ではありませんでしたが、信勝の母・土田御前の口添えもあり赦免されます。勝家は剃髪(ていはつ)し、これ以降、信長の忠実な家臣となりました。1557年に信勝が再び謀反を企てたときは、勝家が織田信長に密告したといわれています。
この時点ではまだ信長から深い信用を得られておらず、尾張統一の戦いや桶狭間の戦いといった信長の重要な戦いに勝家は徴用されていません。しかし、その他の戦いで武功を重ねるうちに信長からの信用を勝ち得ていきます。そして、敵方から「鬼の権六」と恐れられる活躍を見せます。
1568年の信長の上洛戦では、織田勢の主力として従軍。1575年には長篠の戦いに参戦します。また同年に越前国(現・福井県)で起こった一向一揆を鎮圧。この功績により信長から越前国を与えられ、越後国(現・新潟県)を本拠とする上杉ににらみを利かせます。
そして、1582年には加賀国(現・石川県)の一向一揆を平定し、信長から加賀国を与えられました。越中国(現・富山県)の魚津城の戦いでは上杉景勝・直江兼続らに勝利。勝家は越前、加賀、能登、越中の4カ国を支配下に収め、織田家の家臣として最大勢力を持つようになります。この頃の勝家の活躍を見ると、飛ぶ鳥落とす勢いの感があります。
しかし、ここで状況を一変させる大事件が起きます。勝家が上杉氏方にあった越中国の魚津城・松倉城を勝家が包囲していたさなかの1582年6月2日、明智光秀が謀反を企てて信長を急襲。信長が自害するのです。
勝家にとっての“本能寺の変”…
後に本能寺の変として知られることになるこの事件のことを、越中にいた勝家は知りません。勝家は越中で戦いを続け、翌6月3日には魚津城を陥落させます。勝家が事件のことを知ったのは、6日のこと。勝家は直ちに軍を撤退して京に向かおうとしますが、上杉側はこの機に乗じて反撃に転じ、勝家はなかなか動けません。ようやく18日に近江に着きますが、このときにはすでに秀吉が光秀を討っていたのでした。
天下統一を進めていた信長は、各地に広大な領地を有していました。旧信長領の分配、そして信長亡き後の織田家の跡取りを決めるため、織田家の重臣が集まって会議が行われます。清洲会議です。
この会議では、信長のあだを討った秀吉の存在が、いやが応でも大きくなります。織田家の後継者には、秀吉の意向をくんで織田信忠の子・三法師が選ばれます。領地の分配では勝家にも長浜12万石が与えられましたが、秀吉は28万石の加増。これにより秀吉は領地の面でも勝家をしのぐことになり、両者の対立は深まっていきます。
翌1583年、賤ヶ岳の戦いで勝家は秀吉と激突。劣勢となった勝家は越前に退却しますが、本拠としている北ノ庄城も攻められ、勝家は自害してその生涯を終えました。
悲劇的な最期を迎えた勝家ですが、勝家は武力に劣っていたわけではありません。勇猛果敢なことで知られ、「鬼の権六」と恐れられていたことは前述の通りです。戦場では「かかれ!かかれ!」と大声で叫びながらすさまじい突撃を見せたため、「かかれ柴田」とも呼ばれていました。
また、勝家は人柄にも優れていたといいます。賤ヶ岳の戦いで敗れた後、先に撤退した前田利家を責めなかっただけでなく、数年来の尽力に対して感謝の意を表したというエピソードが残っています。勝家の温情ある人柄を、信長や秀吉にも謁見した宣教師フロイスも伝えています。
武力にも人徳にも恵まれ、信長の家臣として大きな勢力を持つようになっていた勝家。その運命を大きく左右したのが、本能寺の変の後の数日でした。天下統一を進める当時の信長が急に亡くなったとあれば、残された武将にとっては大きなチャンスです。ここでとっさに動き、信長を襲った明智光秀を討ち取り、イニシアチブを握ることに成功したのが秀吉でした。
本能寺の変が起きたとき、勝家は越中で上杉と相対しており、すぐには動けないという事情がありました。しかし、秀吉も備中国(現・岡山県)で毛利と戦っており、京都にいたわけではありません。信長が本能寺で討たれたことを知った秀吉は、すぐさま毛利輝元と講和し、京都に向かいます。これが、秀吉の「中国大返し」として知られる出来事です。
大胆さをいつ発揮すべきか
もちろん、勝家と秀吉では直面していた状況が違うので単純な比較はできませんが、とっさに動いた秀吉と動けなかった勝家で明暗が分かれたのでした。
企業に例えると、勝家は力があり、順調に領土というシェアを伸ばしていた優良企業のような存在だったかもしれません。しかし、業界を揺るがす出来事が起きたとき、秀吉というライバルに先を越され、一気に主導権を握られてしまいました。
堅実に事業を伸ばしていくことはもちろん大切なことでしょう。しかし、決定的に重要な時機が来たとき、それと判断し、大胆に動けるか。時にはこのことが企業の運命を大きく決めることを、勝家の足跡を見ていると感じずにはいられないのです。