外国人観光客が急増し、インバウンド需要が盛り上がっています。日本を訪れた外国人に人気の観光スポットの1つが、世界遺産であり、国宝でもある姫路城。大規模改修され、白く輝く天守閣は一見の価値があります。その姫路城の礎を築いた戦国武将が池田輝政です。
戦国時代には、個性あふれる数々の勇将や猛将が存在しました。しかし、数々の武功を挙げ、信長、秀吉、家康という東西の天下人から厚い信頼を得た池田輝政は、そうした武将たちとは異なり、並外れた個性の持ち主というわけではありませんでした。それどころか、一種の“目立たなさ”を持った人物といえるかもしれません。
輝政は1564年、織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国(現・愛知県)に生まれ、父、兄の元助と共に幼少の頃から信長に仕えます。“目立たなさ”を持ったと言いましたが、輝政は大変武勇に優れた人物でした。1580年には16歳で花隈城(兵庫県神戸市中央区)の戦いに参戦。信長から感状(戦での手柄を褒めるために上官が与える書き付けのこと)を授けられるほどの活躍を見せます。
1582年には仕えていた信長が本能寺の変で急死し、池田家は秀吉に仕えるようになります。翌年には、小牧・長久手の戦いで父と兄が戦死。輝政は、若くして池田家の家督を継ぐことになりました。
当主となった輝政は、秀吉の下で働き、紀州征伐、富山の役、九州平定など、秀吉の主要な合戦の大半に従軍。1584年に10万石の領主へと出世します。さらに、秀吉が北条氏を攻め立てた1590年の小田原征伐では先陣を務め、その武勲により15万2千石を拝領。秀吉の臣下として存在感を確かなものとします。
評価に納得できれば、敵(かたき)であっても仕事をする…
しかし1598年には秀吉が死去し、今度は徳川家康を主君として働くことになります。家康は、小牧・長久手の戦いで父と兄を失うもとになった敵(かたき)。しかし輝政は秀吉の仲介で家康の次女・督姫(とくひめ)を娶(めと)っており、舅(しゅうと)に仕えるようになった形です。
輝政は、家康の下でも着実に仕事をこなしていきます。関ヶ原の戦いの前哨戦となった岐阜城攻略では福島正則と共に功績を挙げ、播磨姫路52万石を与えられることになりました。初代姫路藩主となった輝政は、姫路城の大改修に着手。14世紀からある古城を大規模な城郭に造り替え、家康の期待通り、山陽道の要衝である姫路を抑える要塞とします。
次男、三男、弟の分などを合わせると領地は90万石を超え、池田家は旧豊臣恩顧の武将として別格の厚遇を受けました。1612年に輝政は正三位参議に任命され、徳川一門以外の大名で参議に任官された最初の人物となっています。
翌1613年、輝政は姫路で急死。明治にまで続く姫路藩、池田家の礎をつくって、生涯を閉じました。
輝政は、口数の少ない人物だったといわれています。また、家臣を大切にすることでも知られています。
あるとき、家臣の刀が盗まれる事件がありました。周囲に嘲笑されたその家臣が暇を願い出たところ、「あの(源義経の四天王の1人である)佐藤忠信だって刀を盗まれた。恥に思うことはない」といさめたというエピソードが残っています。
寡黙な人物像ながら、家臣を大切にし、信長・秀吉・家康というクセの強い英傑の下で、淡々と仕事をこなしていくデキる人物。輝政の足跡をたどっていると、このような印象を受けます。
輝政は、自分がその気になれば天下を取れるというような自負もあったようです。しかし、天下を取るために策を弄したり、主君を裏切ったり、背いたりすることはありませんでした。恐らく、武勇には自信があっても天下人としての資質は自分にないことを自覚していたのではないでしょうか。それ故、着実に仕事を重ねることを選び、池田家を100万石に届くほどの家に育てていったのかもしれません。
輝政が戦国時代を乗り切り、徳川の世でも重きを成した要因として、前述の通り家康と姻戚関係を結んだことが指摘されることがあります。しかし、戦国の世では婚姻による合従連衡は当たり前のこと。同じく秀吉に仕えた加藤清正や福島正則といった有力武将も家康と姻戚関係を結んでいました。しかし、加藤家、福島家は後に改易されています。
清正、正則と輝政を分けたものはなにか。秀吉の子飼いである加藤清正や福島正則と、信長に仕えその後秀吉を主君とした輝政という違いが影響した面があるかもしれません。しかし、父や兄の敵の命令でも、着実に成果を上げた輝政の姿勢を家康は評価したのではないでしょうか。私心を捨て、実績をしっかりと積み重ね、評価と信頼を得る――結局これが一番強いということを、輝政の足跡は思い起こさせてくれます。