戦国の有力武将といえば、戦や政治的駆け引きによって領土を拡大し、さらには天下も狙うといったイメージがあります。しかし、中には力を持ちながらも、天下を取ることには執着しなかった有力武将もいます。その代表が毛利元就と上杉謙信です。
毛利元就は1497年、安芸(現・広島県西部)の国人領主(こくじんりょうしゅ)である毛利弘元の次男として生まれました。1516年、安芸武田家の当主である武田元繁との戦いで初陣を飾った元就は、続く武田家との戦いの中で武田家重鎮の熊谷元直、元繁を次々と討ち、名前を高めました。
そして1523年、27歳で家督を継ぐと、持ち前の知略で勢力を広げて行きます。1529年には、安芸石見国の領主連合を率いていた石見高橋家一族を下し、安芸から石見(現・島根県、広島県北部)にかけての領土を手中にします。
続いて周防(現・山口県東部)、長門(現・山口県北部)の領主である大内家の家臣・陶晴賢(すえはるたか)を厳島の戦いで破ると、大内家当主の大内義長、そして長年のライバルである尼子家を討ち、中国地方のほぼ全域を支配しました。
その頃、織田信長が有していたのは尾張の1国のみ。元就は中国地方10カ国を手中に収めており、当時、国内最大の領土を持つ戦国大名でした。元就は知略・謀略に優れており、天下統一を狙う力もありました。しかし元就は「天下を望まず」と言い、それ以上領土を広げようとはしませんでした。
安芸の地方領主にすぎなかった毛利氏を、中国地方を制圧する大名にのし上げた元就は、希代の戦略家と恐れられ、その実力が高く評価されていました。しかし、元就自身はそのようには考えていませんでした。自分が尼子家を倒して中国地方を制圧できたのは時の運によるもので、今日の隆盛を見るに至ったのは不思議なことであり、それ以上を望むべきではないと述べたといわれています。
「天下取り」より「家の存続」を優先…
元就が望んでいたのは、天下ではなく、家の存続でした。毛利隆元、吉川元春、小早川隆景という元就の3人の子どもたちは「三本の矢」のエピソードで有名ですが、元就は天下を取ってもその座は短命に終わって家が滅んでしまった平氏、源氏、北条家を例に挙げ、「毛利家はこのようにならないよう、数カ国を守って子孫が存続するようにせよ」と子どもたちに説きました。
毛利隆元の息子・輝元は安国寺恵瓊に推されて関ヶ原の戦いで西軍の総大将となり、天下の趨勢(すうせい)に関わってしまったのは、元就の教えに反することだったのかもしれません。結局、関ヶ原の戦後処理で存続の危機に陥ります。それでも、長州(現・山口県西部)は安堵され(守られの意味)、毛利家は藩主として長く長州藩を治めることになりました。家の存続を望んだ元就の願いは、何とか実現したことになります。
軍神の異名を持ち、現代でも「最強の戦国大名」と評されることの多い上杉謙信も、天下取りへの執着を感じさせない武将でした。謙信は、「誰かをひいきするためには弓矢を取らない。ただ、道理のためには誰にでも力を貸す」と述べています。自分の領土拡大のためではなく、道理にのっとって助けを求められれば戦いにはせ参じる。これが、謙信のスタイルでした。
謙信は武田信玄と激しい戦いを繰り広げたことで知られていますが、信玄と天下取りの野望が衝突して戦に突入したわけではありません。信玄の信濃侵攻によって、信濃守護の小笠原長時、葛尾城主の村上義清が領国を追われ、次々と謙信に助けを求めて来たのがきっかけです。それによって謙信が立ち上がり、信玄との5次にわたる川中島の戦いが始まりました。
謙信は関東の北条家とも対決していますが、これも助けを求められてのこと。関東管領である上杉憲政が北条家から圧迫を受け、また信濃侵攻を考える信玄とも対立するようになったため、謙信に助けを求めました。謙信はこれに応じ、北条家討伐のため小田原城まで攻め上がることになります。
謙信は信長とも対立することになりますが、これも信長に攻撃された本願寺の顕如と越前の一向宗徒が謙信に助けを求めたことが発端にあります。「義の武将」といわれる謙信ならではのエピソードです。
上杉家も謙信の養子である景勝が関ヶ原の戦いで西軍に付いたために減封処分を受けましたが、景勝が米沢藩の初代藩主となり、以降、米沢の地で長く栄えることになります。
戦国武将が領土を広げ、天下をめざすのは、現代でいえば企業がマーケットシェアを増やし、業界ナンバーワンになろうとすることに似ています。武将が領土を広げて収入を増やすように、企業はシェアを広げて利益を拡大し、市場を支配しようとします。
しかし、いたずらにマーケットシェアを追い、市場支配を狙うことが企業の存続につながるわけではないという視点を、元就や謙信は見せてくれているように思います。
元就はかなりの実力の持ち主であったものの、中国地方の制圧を「時の運」とし、自分たちの力を過信せず、天下を狙うことを戒めました。謙信は「義」によって動き、領土を拡大するだけの戦いには関心を示しませんでした。
天下を望んで滅んだ今川家や武田家と違って、毛利家も上杉家も、関ヶ原の戦いで天下の動向に関与した結果、減封処分は受けましたが、何とか家は存続しました。それは元就や謙信の教えと無縁ではないでしょう。