戦国時代の武将は、多くの家臣を抱えていました。命令を下すのは、武将の役目。しかし、それぞれの家臣も自分の意見を持っており、家臣の意見に対する対処の仕方に個性が表れます。中でも家臣からの諫言を大切にした武将といわれているのが、徳川家康です。
戦国武将の逸話をまとめた「名将言行録」には、家康の次のような言葉が載っています。「主人の悪事を見て諫言をする家老は、戦場で一番槍(いちばんやり)を突くよりもはるかに優れた心根を持っている」。
当時、戦場での一番槍は最高の名誉とされていました。しかし、諫言をするという行為とその心情は、それに勝るというのです。
「名将言行録」は室町の世から時を隔てた江戸時代末から明治時代にかけて編さんされた書で、その信ぴょう性については疑問の声もありますが、家康が諫言を大事にしたことは確かなようです。
あるとき、家臣の1人が書状を取り出して家康に対する提言を読み上げました。それを聞いた家康は「これからも心置きなく告げよ」と喜びました。
一方で、参謀として名高い本多正信がその書状の内容が取るに足らないものであることを指摘すると、家康はきっぱりと言い放ちました。「国を領し、人を治める身にはへつらう者が多く、違うと意見する者は少ない。用いる用いないは別として、彼の忠誠な心がうれしいではないか」と。
家康の運命を変えた本多忠勝の忠言…
諫言が家康の命を救ったのは、1582年6月2日の本能寺の変でした。この日、家康は信長に勧められた堺の見物を終えて京都に向かっていました。冷静なことで知られる家康も、信長死すとの報に接すると動転してしまい、「信長公が自害されたのなら、自分も腹を切る」と言い始めたと伝えられています。
そんな家康を諌(いさ)めたのが、重臣の本多忠勝でした。忠勝は思いとどまるように家康をなだめ、伊賀(現・三重県)を越えて三河(現・愛知県)に戻るように説得します。
われに返った家康は忠勝の諫言を聞き入れ、三河に向かいました。これが家康の「伊賀越え」です。もし家康が忠勝の言うことを聞かなかったら、家康個人の運命はいうまでもなく、日本の歴史が大きく変わっていたことでしょう。
一方、諫言を聞き入れなかったことが破滅につながったのが武田勝頼でした。父・信玄の死後、跡を継いだ勝頼は勢力拡大に乗り出します。そこで攻撃の目標として浮かび上がったのが、徳川方の拠点となっていた三河の長篠城でした。
1575年、家康の家臣・奥平信昌が守っていた長篠城に勝頼は攻め込みますが、攻め落とすことができません。家康は信長に救援を要請し、自らの手勢8000、そして3万の信長の援軍と共に長篠城に向かいます。対する勝頼の軍は1万5000。情勢を見た山県昌景、馬場信春、内藤昌豊など武田の重臣は、戦いを止めるよう勝頼に諫言します。
しかし、父・信玄時代からの重臣の声を勝頼は聞こうとしません。昌景らは再三にわたり決戦を止めて退くよう進言しますが、勝頼は断固として戦うことを主張します。
結局、勝頼は自分の言い分を押し切り、戦いの火蓋が切って落とされました。この長篠の戦いで、武田軍は大敗。重臣たちの懸念は現実のものになります。この敗戦により武田家は勢力を弱め、7年後に滅亡することになります。
企業においても同様に、経営トップに限らずマネジメント層は、諫言に対してどのように対応するかが問われています。例えば“イエスマン”だけを周囲に置いてしまうことの危険性はよく指摘されるところです。
部下からすれば、上司に対しては反対意見を述べにくいという心理が働きます。上に立っている者がそうしたいと思っていなくても、自然と反対意見が集まりにくくなるものです。
最終的な判断は、責任を持って上の人間がすべきです。しかし、上の立場にいる人間が常に正しい判断ができるとは限りません。自分の視野だけで物事を判断することがないように、諫言を聞くマインドセットを持つ。また、部下が諫言をしやすい環境をつくる。そのことの大切さを、家康と勝頼の例は教えてくれているように思います。