この惣無事令は、天皇による命令を、天皇を補佐する役職である関白に就いた秀吉が発する形になっていました。これに反することは天皇の命令に背くことになり、その場合、関白の秀吉が征伐を行います。
その頃、九州で勢力を伸ばしていたのが島津義久でした。薩摩(現在の鹿児島県西部)、大隈(現在の鹿児島県東部)、日向(現在の宮崎県)という九州南部の三州を統一した義久は北上し、九州北部の大友宗麟の地に触手を伸ばします。
義久に抵抗できないと見た宗麟は大坂の秀吉を訪れ、助力を求めました。これを聞いた秀吉は義久に対し、天皇の命令として停戦を求める旨をしたためた書状を送ります。これが最初の「惣無事令」です。
この書状に対してどのように対応するか、島津氏の中で議論が交わされます。しかし、結局秀吉に従わないことを決断。宗麟の領内に侵攻を始めました。
もちろん、秀吉は黙っているわけにはいきません。九州に軍勢を送り、義久軍の制圧にかかります。九州に向けられた秀吉軍は、総勢10万人といわれています。この大軍に、義久は抵抗できず敗戦。謝罪し、秀吉の下に降伏しました。これにより、秀吉は九州を平定します。
九州に続き、秀吉は関東、および奥州の陸奥(現在の福島県から青森県)、出羽(現在の山形県・秋田県)にも惣無事令を出しました。これに反発したのが、関東で一大勢力を誇っていた北条氏です。秀吉は北条氏政に上洛(じょうらく)を求めて帰順の意を表すように促しますが、氏政は弟の氏規を京都に差し向け、本人は上洛しません。そして、北条氏の家臣が真田氏の名胡桃城に攻め入ってしまいます。
そうした態度に業を煮やした秀吉は、北条氏の拠点である小田原を攻め立てます。秀吉軍は、徳川家康や蒲生氏郷などを含む約21万人。北条氏側は抵抗を試みますが、秀吉の圧倒的な軍勢の前に劣勢となり、小田原城は攻め落とされました。
こうした結果から、秀吉は「惣無事令」を口実に各地に攻め入り、帰順の意を表そうとしない大名を滅ぼそうとしたように見えるかもしれません。しかし、必ずしもそうとは思えない面があります。実際、九州平定後、秀吉は島津義久には薩摩・大隅の2国に日向の諸県郡を、大友義統には豊後の地を安堵していますし、版図は狭くなりますが、北条氏にも武蔵・相模・伊豆を領地とするよう命を出しています。
「惣無事令」の要は、大名間の私戦を禁じることで各大名の領土を確定させることにあったと思われます。これは、企業に当てはめると部署や子会社といった組織の担当領域を明確にする施策になぞらえることができるのではないでしょうか。
企業が事業を進めているうちに、いつの間にか組織の担当領域が曖昧になり、例えば同じ目的を持つプロジェクトを複数の組織が進めているような状況が生じてしまうことがあります。
企業が急成長してスタッフの数が急激に増え、それに伴って既存の部署を分割していくようなときは、どの部署がどの領域を担当するのか、不明確な部分が残ることも少なくありません。
領土(領域)がハッキリしていないと、どの国(部署)のどの範囲までをどの大名(マネジャー)が管理するかが明確になりません。また、国(部署)同士で争うなどはもっての外です。天下統一をめざしていた秀吉は、「惣無事令」で領土(領域)を明確にし、天下(企業)組織の効率化、透明化を図ったのです。
企業が業績を維持し、成長するには、外部の企業と競争しなくてはなりません。そのためにも、内部のゴタゴタで競争力を弱めることは禁物です。豊臣株式会社が出した「惣無事令」は、組織内部での無駄な争いを一掃する非常に重要な法令だったのです。現在の企業も、組織の内部で意味のない縄張り争いや、業務の重複によって無駄が生じていないか、心を配る必要があるでしょう。