戦国武将は戦での勇猛な将であるとともに、平時は臣民を束ね、領地を経営する経営者でもありました。経営者としての戦国武将は、果たして何をやったのか。豊臣秀吉の「秀吉株式会社」第3回は「刀狩令」を取り上げます。
刀狩りは、農民や僧侶などに、刀などの武器の所有を放棄させるものです。中世では農民や僧侶が武装することは禁止されていませんでした。大寺院は「僧兵」と呼ばれる武力集団を持っていましたし、農民が武器を持って戦に参加することもありました。映画『七人の侍』で見られるように村・集落を自衛するためにも農民が武器を保有することは当たり前でした。
しかし、各地で一揆が頻繁に起こるようになり、領主は農民の武器保有を問題視し始めます。1576年には、柴田勝家が越前国(現・福井県)で刀狩りに相当する「刀さらへ」を行いました。これをさらに推し進めたのが秀吉です。
秀吉は1585年、紀伊国(現・和歌山県)に攻め入り、当地で勢力を誇っていた雑賀衆を破りました。そして紀伊を占領するに当たり、「百姓などが今後、弓矢・やり・鉄砲・腰刀などを所持することを禁止する。今後はすき・くわなどの農具を持ち、耕作にいそしむべし」という令を出しました。
そして1588年、今度は全国に向けて「刀狩令」を出します。内容は「諸国の百姓などが刀・脇差し・弓・やり・鉄砲、その他の武具の類いを所持することを堅く禁ずる」「武具をことごとく取り集め、進上致すべきこと」というものでした。
全国統一のためにマネジメントシステムを整えた秀吉…
ただ武具の所持を禁止するだけでは、農民から反発を食らう可能性があります。秀吉はエクスキューズとして「取り上げた武具は、大仏殿のくぎ・かすがいに寄進する。よって百姓はこの世のみならず、来世まで助かるであろう」と言い添えています。
ここでいう大仏殿というのは、京都の方広寺で建立が予定されていた大仏殿のこと。大仏殿の金具として使うのだから、進んで武具を進上しなさいという訳です。
秀吉の刀狩りは、一揆に立ち上がれないように農民などの力をそぐ、圧政の象徴と見られることもあります。しかし、刀狩りにはいくつもの例外が認められていました。町人には刀・脇差しの所持が許可されていましたし、神事に使う武具も認められていました。また、鹿・イノシシといった獣を駆除するためのやりや弓矢の所有も許されていました。秀吉の意向を受けた実行部隊である各地の大名が、身分や条件によって武具の所持を認められるようにしていたのです。
これだけ例外があると、農民の武装解除といった意味合いは弱くなります。それでは、刀狩りの目的は何なのか。もちろん一揆などの武装蜂起を減らすこともその1つでしたが、職制を明確にする意味合いが強かったと考えられます。
1588年に出された「刀狩令」にはこのような1文がありました。「百姓は農具だけ持ち、耕作に専念すれば、子々孫々までも繁栄するであろう」。農民は武具を持って戦に参加することなく、耕作に専念せよということです。
前回に紹介した1585年の「惣無事令(そうぶじれい)」で秀吉は大名間の領土紛争を禁じ、各大名の領土を確定させました。そして次に行った刀狩りにより、確定した領土の中で武士、農民、町民という身分を分け、それぞれの役割を明確にしたのです。
これは、企業における担当業務の明確化に相当するのではないでしょうか。企業の創業当時は、誰がどんな業務を担当するか、ある程度は決まっていても、手が足りないときなどは柔軟に垣根を越えて、協力し合います。しかし、組織が大きくなるにつれて、組織を明確に分け、業務範囲を定めていくのが一般的です。「誰が何をすべきなのか」が不明瞭では指揮命令系統に混乱が生じ、マネジメントが機能不全に陥るケースが出てきてしまうからです。
秀吉は「刀狩令」によって、武士、農民、町民と身分による役割を切り分け、それぞれの“業務”を明確にしました。こうすることで各領土の社会が安定するとともに、それぞれの身分がそれぞれの役割に集中するようになったのです。全国統一を果たし、社会のマネジメントシステムを整えていった秀吉。こうした経営手法が、のちの「徳川株式会社」の長きにわたる経営の安定につながっていったと考えられます。