NHK大河ドラマ『麒麟がくる』は、リアルな時代描写と迫力ある合戦シーンで人気となっています。このドラマの主人公は、長谷川博己さん演じる明智光秀。今年1年、麒麟がくるで注目を集めそうな光秀をビジネス視点で見るこのシリーズの第2回は、光秀の「転職」について考えます。
仕えていた斎藤道三が戦死して失業状態になった光秀は、母の縁で越前国(現・福井県北部)に身を寄せ、彼の地の武将である朝倉義景の家臣になりました(前回参照)。そして、義景の下にいることで足利義昭とつながりができます。
義昭の兄は、第13代将軍・足利義輝です。しかし1565年、義輝が三好三人衆や松永久通らの手にかかって暗殺されるという大事件が起きました。危険を感じた義昭は、若狭国(現・福井県南部)に向かい、姉婿に当たる守護・武田義統の下へ逃れました。
義昭は亡くなった兄に代わって将軍となるべく、上洛(じょうらく)を計画します。しかし自らの下には手勢が薄く、そのまま京都に上るのは危険です。そこで、近隣の有力武将である義景に協力を要請しました。ここで、義景に仕えていた光秀と義昭とに接点ができます。
さらに、義昭は尾張を統一して勢いに乗る織田信長に目を付けました。この時、義昭と信長の交渉役になったのが光秀でした。光秀と信長の運命的な出会いです。
信長としたら、将軍家の正統的な後継者である義昭の護衛という名目で京都に足掛かりを作る絶好の機会です。申し出を承諾した信長は、本拠としていた岐阜城から上洛を開始。途中、三好三人衆らの抵抗に遭いますが、次々に打ち破り、義昭、光秀らと共に京都に入りました。この時、光秀は将軍家の人間である義昭の臣下でありながら、戦の場では信長の配下として働くという、二重に主君を持つ状態でした。
上洛を果たした直後、三好三人衆らの後ろ盾で第14代将軍となっていたいとこの足利義栄が病で亡くなります。障害がなくなった義昭は1568年、第15代将軍に就任。義昭は信長に深い恩義を感じ、書状で信長のことを「御父」と呼ぶほどでした。
しかし、将軍として自らの権力を誇る義昭と、勢力の伸長をもくろむ信長の間には次第に亀裂が入ります。義昭は、武田信玄や浅井長政、三好三人衆、石山本願寺らの反信長と連携し、信長包囲網を形成。義昭と信長の両方に仕える格好だった光秀は、どちらに付くか、選択を迫られます。
能力を生かせる場所、私を生かしてくれる主君を求め脱出…
ここで、光秀が選んだのは信長でした。1571年、光秀は義昭に対していとま願を出します。1573年、義昭が挙兵すると光秀は信長の直臣として参戦。槇島城の戦いで戦功を上げ、信長の勝利に貢献します。信長軍に包囲された義昭は講和に応じて京都から追放され、200年余り続いた室町幕府は終わりを迎えました。
現代でいえば、光秀はまず、失業状態から老舗名門企業である義昭の会社で仕事をするようになります。そして、そこから新進のベンチャー企業である信長の会社に転職するといった経緯でしょうか。なぜ、義昭の老舗名門企業ではなく、信長のベンチャー企業を選んだのでしょうか。光秀は、義昭のことを「先の見込みなし」と見切っていたという話もあります。しかし、光秀は自分のことを評価してくれる会社を選んだと見ることができます。
光秀は、軍師としても優れた武将でした。いくつもの戦いを共にした信長はそのことを見抜き、光秀のことを高く評価し、信頼していました。1570年の金ヶ崎の戦いにもそれが表れています。
越前の朝倉義景と対立を深めるようになった信長は、約3万の大軍を率いて朝倉領に進軍しました。しかし、この戦いの中で浅井長政が義景側に寝返り、信長は窮地に陥ります。そして、撤退を決断します。この撤退戦で池田勝正と共に殿(しんがり)を務めたのが、光秀でした。最後尾に位置する殿は、味方の援護が受けられないまま向かってくる敵軍と相対しなければならない、難しい役割。ここが崩れると軍全体が崩壊の危機にさらされる、重要な役です。そのため、力の秀でた武将が選ばれます。
抜てきされた光秀は見事に殿を務め、信長の期待に応えます。以降の石山本願寺との戦いなどでも、光秀は信長軍の中心的な役割を務めることになります。一方、義昭は光秀をどのように見ていたのでしょう。記録によると、義昭の下での光秀の身分は足軽。光秀に対して、行列などの際に徒歩で従う侍といったほどの見方しか義昭はしていなかったことがうかがわれるのです。
これでは、光秀が義昭の老舗名門企業から、信長のベンチャー企業に籍を移すのも当然です。兵を持たない義昭にとって、誇れるモノは“将軍”という身分であり“足利家”という血統だけです。それがトップを務める組織では、身分や血統を持たないよそ者の光秀に居場所はありませんでした。
失業の苦しさを味わうと、「どんな企業でも勤められればいい」と考えがちです。ただ、その企業のトップの価値観や社風と合わない場合、後悔することになりかねません。そんなことになりそうなタイミングで、信長という自分の能力を評価して、活躍の場を与えてくる存在と出会えた光秀は幸運だったといえるのではないでしょうか。
戦国の世にあって非常に高い教養を身に付けた光秀にとって、義昭の老舗名門企業の方がマッチしていた面があったかもしれません。しかも1571年時点では年齢も当時としては40代でそれなりに高齢です(光秀の生年は不明ですが、1528年とする説が知られています)。そんな、中高年の文化人、光秀がベンチャー企業に飛び込む決断が、戦国の名将“明智光秀”を生んだのです。
義昭の下に残っていれば、今ほどの“名”を残すことはあり得なかったでしょう。転職に当たっては、トップの価値観、社風、自分の活躍の場といった要素を慎重に見極めて決断する必要があることが光秀から学べます。たとえ名門でも、自分の力を見てくれない会社にいても仕方ない。自分を評価し、力を発揮できるポジションを用意してくれる会社に転職する。これが、光秀の処世術でした。