明智光秀の生涯をビジネス視点で捉えるこのシリーズ。第3回は、「中途入社したベテラン社員」としての光秀に焦点を当てます。
光秀は、足利義昭の臣下でありながらも、戦の場では織田信長の下で働いており、二重に仕える状態だったことは第2回で触れました。しかし1573年、義昭が信長に対し兵を挙げると、光秀は信長の直臣として参戦。その理由は、義昭が自分の力を認めてくれず、扱いも低かったからだといわれています。
これは、室町幕府という200年続く老舗名門企業から、尾張(現・愛知県)を拠点に全国に勢力を伸ばす信長というベンチャー企業に転職したようなものです。
転職という判断をした光秀にはどのような運命が待っていたでしょうか。信長という新進気鋭の社長の下、光秀は遺憾なく力を発揮し、信長の天下統一に重要な役割を果たします。
1575年、光秀は信長の高屋城攻めに参戦。さらには長篠の戦い、越前一向一揆全滅戦に加わりました。もともと戦においても才を持っていた光秀は、これらの戦で次々と武功を上げていきます。信長は、こうした光秀の力を高く評価。そして、光秀に丹波の平定を指示します。
丹波は、現在の京都府の中・北部、兵庫県の中北部、大阪府の一部にまたがる地域。都である京都に隣接するこの地は将軍・足利義昭に味方する領主が割拠していました。
信長、光秀にとって丹波は、西に勢力を伸ばし、山陰、山陽を支配する毛利氏を攻め落とすために、ぜひとも手に入れなければならない重要な地域です。この丹波の平定という重要ミッションに、信長は光秀を起用しました。
転職先で難プロジェクトを成し遂げる…
1575年、光秀は京都と丹波の間に位置する亀山に亀山城を築き、ここを拠点として丹波平定に乗り出しました。しかし、1568年に信長が上洛した際には従いながら、その後反旗を翻した波多野秀治、「丹波の赤鬼」と呼ばれた赤井直正といった丹波各地の領主の抵抗に遭い、平定は思うように進みません。
現在の丹波篠山市にあった八上城を本拠とする秀治、秀尚、秀香の波多野三兄弟には幾度となくはね返され、7度にわたって攻防戦を展開。1579年6月、ようやく難攻不落の山城であった八上城を攻め落とすことに成功します。
また、赤井家とも激しい攻防を繰り広げますが、1579年8月、赤井直正が立て籠もる黒井城を攻め落とします。これにより、丹波を平定。5年をかけた、難事業を成し遂げました。
信長は丹波を平定した光秀の功績を高く評価し、「天下の面目を施した」と絶賛します。そして、光秀に丹波国約29万石を加増しました。光秀はそれまで近江国滋賀郡5万石を所有していましたが、これにより35万石近くになり、同時に一国の主(あるじ)に上り詰めたことになります。
光秀の生年は不明ですが、1528年とする説が知られています。信長の下に移った時にはすでに40代半ば。戦国時代のこの年齢は、今の感覚でいうと50代以上でしょう。柴田勝家や丹羽長秀といった古参の幹部社員がいる中、かなりのベテラン社員として中途入社したことになります。しかも、社長である信長は光秀の6つ年下です。現代でも働きにくさを感じかねない環境で、光秀は力を遺憾なく発揮して働いたように見えます。
転職は、少なからず勇気の要るものです。ましてや40代、50代といった年齢であれば、たとえ今いる会社に大きな不満があったとしても、慣れ親しんだ環境を離れるのは容易ではないでしょう。
しかし、自分が求めていることが安定ではなく、自分の力を十分に発揮して仕事をすることなら、年齢にとらわれず、そのような場を与えてくれる会社に移るのは人生の選択肢になり得ます。光秀は40代半ばでそうした選択をし、活躍の場を自ら切り開いたのでした。終身雇用が崩れつつある現在、こうした視点からだと、光秀の生き方も新鮮に見えるかもしれません。