NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、一時放送を休止するなど新型コロナウイルスの影響を受けています。そんな中、これまでの放送の中で主人公・明智光秀に劣らない存在感を見せているのが本木雅弘さん演じる斎藤道三です。
有名な小説の影響などで、道三は以前、油商人から一代で美濃国(現・岐阜県南部)の国盗りに成功した人物とされていました。しかし近年、見つかった数々の史料により、現在は父・松波庄五郎と二代で国を盗ったという説が有力になっています。今回は、この二代説に従って話を進めます。
油商人だった松波庄五郎は美濃の守護・土岐氏に仕えていた長井長弘の家に出入りするようになり、やがて家臣として取り立てられます。そして守護の地位をめぐって土岐頼武と土岐頼芸の兄弟が対立する中で勢力を伸ばし、1533年に亡くなりました。
1494年に生まれ壮年に差し掛かっていた道三は、父の後を継ぎ、美濃の国盗りに突き進みます。1541年には、頼芸の弟である頼満を毒殺。翌年には頼芸の居城・大桑城に攻め入り、頼芸を尾張国(現・愛知県)に追放しました。これで、道三は美濃の実権を握ることになります。
土岐氏の家臣だった長井長弘に仕えていた庄五郎・道三の親子にとって、土岐氏は主家筋に当たります。その土岐氏の頼芸を追い出し、無慈悲に下克上を果たしたことをもって、道三が「美濃のマムシ」といわれるゆえんです。
ただ、頼芸もそのまま黙ってはいません。頼芸は尾張で勢力を誇っていた織田信秀を頼り、美濃に侵攻。美濃への復帰を果たします。そして、1547年には信秀が越前国(現・福井県)の朝倉孝景と連携し、道三の居城である稲葉山城に攻め入りました。
このような情勢の中、道三は娘の帰蝶(きちょう)を信秀の嫡子・織田信長に嫁がせるのと引き換えに、信秀に対し和睦を提案、信秀もこれを受け入れます。信秀の脅威を取り去った道三は、頼芸を再び尾張に追放。道三は美濃を完全に手中に収めることになりました。
信長を評価して、後継者は評価せず…
帰蝶の嫁入りの際のエピソードは有名なのでご存じの方も多いでしょう。道三は信長との面会の機会をつくります。当時、信長には、尾張の大うつけ(常識知らずのやんちゃ者)という悪い評判がありました。そんな信長の姿を予想して道三は待ち構えていました。しかし現れたのは、鉄砲を装備した護衛を従えた正装の立派な青年。態度も堂々としたものでした。道三は、これにより後に天下人となる信長の器量を見抜きました。会見が終わると、道三は「我が子たちは、あのうつけの門前に馬をつなぐ家来になる」と言ったといわれています。
1554年、老年の域に入っていた道三は家督を長男の義龍に譲り、隠居しました。しかし、実態は異なりました。家督を長男に譲った義龍のことを道三は評価していなかったのです。これは義龍が持病をもっていたからとも、大男で動作が緩慢で愚鈍に見えたとも、はたまた実の子ではなかったなどいろいろな説がありますが、とにかく道三は義龍の能力を認めていませんでした。
道三は義龍を「ほれ者(馬鹿者)」といい、弟の孫四郎や喜平次らを「利口者」と褒め、実権を手放しません。そして、弟らに家督を継がせるような動きまで見せます。道三との確執が明らかになり危機感を抱いた義龍は、1555 年に孫四郎と喜平次を殺害。道三に対して挙兵しました。娘婿の信長が急いで援軍を派遣したものの、間に合わず、道三はこの長良川の戦いで子の義龍に討たれて亡くなりました。
悲劇的な道三の晩年を見て感じるのは、後継者選択の難しさです。信長の器量をいち早く見抜いたところを見ると、道三は人を見る目の持ち主だったといえるかもしれません。しかし、長男の義龍に対しては見誤りました。
義龍との長良川の戦いで、道三の下に集まった兵は2500。対して、義龍は1万7500の兵を集めています。晩年の道三と義龍とでは、力にこれだけの差があったことになります。中央集権志向だった道三に対して、配下に権限を委譲することをよしとする義龍のスタンスの違いが影響したという説もありますが、兵をどれだけ集められるかが、武将の力を測る基準の1つであることを考えると、義龍の能力を認めざるを得ないでしょう。
道三亡き後、義龍が美濃を治めました。義龍は国内の所領を整理するなど、内政に力を発揮します。当時の将軍・足利義輝に認められ、義輝の相伴衆(しょうばんしゅう)に列せられます。また、都の要職である左京大夫にも任命されました。信長が足利義昭を利用して、権威を高めたのに先駆け、義龍は義輝の下で地位を固めていったのです。
長良川の戦いの前夜、道三は信長に向けて美濃を譲るという内容の書状を送っていたといいます。しかし、義龍の手腕はそれを許しませんでした。急死するまでの5年間、信長の侵攻を防ぎ続けました。そして、その後、若くして跡を継いだ義龍の子ども、龍興の時代にも、ある程度の期間、美濃を守り続けることができたのは、義龍の残した統治体制によるものでしょう。
企業においても、後継者選びとその教育は非常に重要な問題です。やり手社長であった道三の後継者選びは失敗したといわざるを得ません。信長という外部の優秀な人間を見抜いた道三の人を見る目は評価できますが、その目は身内に対しては曇ってしまったようです。もしかすると、道三は自分と同じタイプの信長は評価できたのかもしれませんが、違うタイプの優秀な統治者の資質を秘めた義龍のことは認められなかったのかもしれません。
道三の下で義龍は後継者の座に就いたわけですから、教育し、フォローしていく道もあったはずです。義龍の力も認め、足りない部分を背後からカバーをしていけば、美濃斎藤家には違った未来があったのではないでしょうか。道三と義龍、違ったタイプの優秀な人材が力を発揮すれば、非常に強力な体制になったかもしれません。
もしかすると道三は自らの言葉通り、自分亡き後、斎藤家が信長の配下としてのポジションに収まり、存続していく姿を思い描いていたのかもしれません。それならそれで家督を譲る前にその方針を示しておけば、信長の同盟者として地位を固めた徳川家のようになれた可能性もありました。子どもに討たれた道三の最期から、後継者選びの難しさ、家(企業)を存続する難しさが伝わってきます。