NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、10月4日に放送された第26回「三淵の奸計」で織田信長の上洛(じょうらく)という室町幕府の大きな転換点を迎えました。振り返ると、「麒麟がくる」第17回までの美濃編では信長の父である織田信秀が大きな役割を演じていました。今回の大河ドラマは、主人公の明智光秀と信秀・信長の親子をめぐる物語という側面があります。
信秀は1511年、尾張国(現・愛知県)の勝幡(しょばた)城主、織田信定の長男として生まれました。当時は、清洲織田氏(織田大和守家)が織田の本家で、信秀が生まれた織田家は本家を支える分家に過ぎません。しかも、清洲織田氏が守護代として統治していたのも尾張の一部である下四郡でした。
1527年に、信秀は信定から家督を相続。織田氏の中で勢力拡大を図ります。さらに1530年代には、信秀は策略を巡らせ、当時、那古野城(後の名古屋城)に拠点を置いていた今川氏豊から城を奪取。居城を那古野城に移します。さらに渡城、末森城と拠点を変えながら勢力を伸ばし、松平清康、今川義元、斎藤道三らと戦いを繰り広げていきます。
信秀の時代、尾張の名目上の支配者は守護である斯波(しば)氏でした。それに代わり実質的に尾張の一部を支配していたのが清州織田氏。信秀はその分家のトップに過ぎませんでした。その信秀が、なぜこのように勢力を伸ばすことができたのか。その要因の1つに、要衝(ようしょう)の支配があります。
信秀は氏豊から那古野城を奪うと、那古野城からほど近い熱田を支配しました。現在の熱田は埋め立てにより海から少し離れていますが、当時は伊勢湾に面した海上交通の要衝。伊勢湾貿易で大いに繁栄していました。また、陸路でも京都と東国を結ぶ重要な場所に位置しています。熱田神宮の参拝者も多く、商業も非常に盛んな場所でした。つまり、尾張地域の物流・交通・商業の拠点だったのです。熱田神宮といえば、信長が桶狭間の戦いの際、戦勝祈願を行った場所として記憶している方も多いと思いますが、信長の飛躍のルーツも熱田にあったのです。
信秀は熱田を手中に収めることで人とモノの流れを押さえるとともに、港の通行税である津料で巨大な富を手にします。信秀は、得た富を中央への寄付に利用し、自らの権威付けに役立てます。1541年には、財政難に陥り式年遷宮ができなくなっていた伊勢神宮に700貫を寄付。1543年には、同じく非常に厳しい財政状況にあった朝廷に対し、内裏(だいり)の修繕費として4000貫を献上しました。これらの功により、信秀は朝廷から三河守に任じられます。また、将軍・義輝に拝謁するなど朝廷と幕府の両方から信任を得て、地位を上げることに成功します。
3代にわたり、経済拠点支配で潤った織田家…
信長も、物流・交通・商業の拠点を押さえる父・信秀のやり方を踏襲しました。1568年、信長の力添えにより足利義昭が室町幕府第15代将軍に就任します。義昭は幕府の要職の座を信長のために用意しますが、信長はそれを拒否。その代わりに要求したのが、大津、草津、堺の支配権でした。
大津は琵琶湖の西岸にあり、交易港として、また京都の外港的存在として繁栄していました。琵琶湖から東に少し離れた草津は、東海道と東山道が合流する地点に位置する陸路交通の要衝。共に重要な物流・交通の拠点です。
堺は国際的な貿易港で、来日した宣教師フランシスコ・ザビエルが「日本国内のほとんどの富が集積している」と評したほど繁栄を極めていました。堺は当時、国内最大の工業都市であり、鉄砲の生産基地でもありました。商業拠点である堺の支配権を得た信長は、堺の町に対して2万貫の矢銭(軍資金)を要求。自立心に富んだ堺の町人は抵抗を試みますが、信長の力に屈し、2万貫を支払うことになります。
大津、草津から得られる税収、そして堺の矢銭で莫大な資金を得た信長は、高価だった当時の最新兵器・鉄砲を大量に調達できる財力を有することになりました。1575年の長篠の戦いで、信長は3000丁もの鉄砲を用意。最強といわれた武田の騎馬軍団を破り、天下統一にまい進できたのも、経済力の裏付けがあったからからこそです。
実は、織田家がこうした拠点支配で成功したのは、信秀が最初ではありません。実は、信秀の父、信長の祖父に当たる織田信定も、拠点を押さえることで力を付けていました。信定の時代、津島は、伊勢湾交易の玄関口として繁栄し、熱田と並ぶ経済拠点になっていました。その津島を手中にし、それによって得た経済力を自らの勢力確立の基礎としたのです。
このような祖父、父を持つ信長は、勢力を拡大するために何が必要かを熟知していました。経済力です。そのため没落していく幕府の要職ではなく、大津、草津、堺といった要衝の支配権を求めました。そして、そこから得た権益を戦に投資し、武田との戦いに勝利し、天下統一への道を突き進みます。
こうした織田家、信定、信秀、信長の歩みを見ていると、拠点を押さえること=立地戦略の大切さに気付かされます。当時、多くの戦国大名はコメの収穫量を基本に経済を考えていました。それにより年貢が決まるからです。それに対して、織田家3代は、物流・交通・商業の重要性にいち早く着目し、その拠点を押さえることで拡大していきました。農業は土地の広さや地形・気候が大切な要素ですが、物流・交通・商業で一番大切なのは立地です。その拠点さえ押さえておけば自然に経済力は付いてきます。
ビジネスにおいても、立地戦略は非常に重要です。どのエリアにその商品を求めるニーズがあり、より多くの利益が見込めるのかを考慮して、マーケティングを展開する必要があります。それも時間の経過によって、刻々と移り変わるのですから、常に最適な立地を探る姿勢もビジネスの継続には不可欠です。
桶狭間の戦いをはじめとして、多くの合戦に勝利したことが信長の天下統一の要因であったことは確かですが、その背後には経済拠点の確保という立地戦略がありました。ビジネスにおいても、商品や販売手法の開発といったことだけでなく、立地戦略が欠かせません。そして、それを決めるためには経営者に先見性が欠かせません。
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」との狂歌があるように、信長には短気な武将というイメージがあります。実際、そのような面もあったのでしょう。しかし、天下統一というゴールを達成するために、どのような拠点を押さえることが必要なのか、その着眼点がほかの戦国大名と一味違っていたように思えます。