NHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、第30回「朝倉義景を討て」で 織田信長が越前国(現・福井県)の朝倉義景を討つところまで話が進みました。今回はこの戦いにも参戦した信長の家臣、金子ノブアキさん演じる佐久間信盛の生涯を見ることにします。
多くの方が頭に浮かべる織田家の重臣は、柴田勝家、丹羽長秀あたりで、その名前をもらった羽柴秀吉(豊臣秀吉)や明智光秀といった途中入社組がそれを追いかけるといったイメージではないでしょうか。しかし、実は信盛は、織田家において勝家と同格かそれ以上のポジションを与えられた武将でした。いうなれば、織田株式会社の専務といった要職を務めていたのです。
それが、現在、上記4人と比較すると知名度で圧倒的な差をつけられ、まるでその他大勢といった扱いを受けるようになったのは、信長の生前に怒りを買って、何もかも失ってしまったことが影響しています。
信盛は若い頃、信長の父である織田信秀に仕えていました。そして1552年、信秀が死去すると、織田家の家督を継いだ信長に仕えるようになりました。1556年、信長と弟・信勝との間に家督争いが勃発。織田家を二分する事態となります。ここで柴田勝家、林秀貞らは信勝側につきましたが、信盛は前田利家、丹羽長秀らと共に信長側に付きます。信長の軍勢は信勝軍の半分以下という不利な状況でしたが、信長軍はこの戦いに勝利。信盛は信長の信頼を勝ち取り、以降、信長の下で戦いを重ねることになります。
信長が今川義元と相対した1560年の桶狭間の戦いでは、善照寺砦を守備し、その功により鳴海城を与えられました。1568年、信長が足利義昭を奉じて上洛する途中で六角義賢・義治父子と戦った観音寺城の戦いでは、義賢の箕作城を攻め落とし、信長軍の勝利に貢献しています。
以降も姉川の戦い、志賀の陣と信長の下で戦い、1571年の比叡山の焼き討ちではその戦功により近江国(現・滋賀県)粟田郡の知行地を与えられるなど、各地の戦で活躍を見せました。
こうした数々の功によって、信盛は信長の信を厚くしていました。1567年に信長の娘・徳姫が徳川家康の長男・松平信康に嫁いだ時には、徳姫を岡崎城まで送り届ける役を任されたことにもそれは表れています。また、1570年には要衝である近江を守護する役割を柴田勝家らと共に任じられ、永原城に配置されました。六角軍が攻め入ってきた時にはこれを撃退するなど、信盛は信長の期待に応えます。
“ワンマン社長”信長との信頼関係が徐々に崩れる…
しかし、こうした信盛と信長の信頼関係に少しずつひびが入っていきます。その最初が、1572年の三方ヶ原の戦いでした。足利義昭が発した信長包囲網に応えた武田信玄は、甲斐国(現・山梨県)から西進、遠江国(現・静岡県)の三方ヶ原で徳川家康と相対します。この戦いは家康が死を覚悟したというほど軍勢に差があり、家康の援軍に駆け付けた信盛は情勢を見て程なく退却してしまいました。
自軍の無駄な損害を抑えるための判断でしたが、信盛と共に援軍に駆け付けた平手汎秀が討ち死にをしており、信長は不信感を抱きます。平手汎秀は、若き日に自分をかばってくれた平手政秀の孫に当たることもあり、信長が目を掛けていた武将だともいわれています。
翌1573年。信長は長年の敵、朝倉義景と戦いを交えます。義景は信長の奇襲を受けると退却。信長は先陣の家臣に追撃を命じますが、信長の本陣より出遅れてしまいました。信長は叱責し、柴田勝家や丹羽長秀は謹んで陳謝しました。ところが、信盛は涙を流しながらも余計な一言を口にしてしまいました。「そうはおっしゃいましても、我々のような(優秀な)家臣はお持ちになれないでしょう」。
これを聞いて、信長は激怒します。現在でも、ミスを指摘した部下から、こうしたことを言われたら、どんな上司でも怒りを覚えるのではないでしょうか。この時は他の家臣のとりなしもあって許された信盛ですが、信長はこの時のことを相当根に持ったようです。ただ、その後も信盛の能力を認めていたのか、信長は数々の合戦に起用します。
そして、信長の信盛に対する信頼度が依然として高かったことを示したのが、石山合戦です。上洛して畿内を制圧した信長は、大きな勢力を持つ大坂の石山本願寺と対立。1570年から戦いを繰り広げていました。信盛は1576年、この戦いの指揮官に任じられたのです。この時、信盛の配下には、三河、尾張、近江など7つの国から集められた与力が付けられ、当時の織田家でも最大規模の軍を指揮することになりました。
しかし、ここで信盛は力を示すことができませんでした。強力な石山本願寺軍を前にして膠着状態に入り、約4年もの間、特段の成果を挙げることができません。しびれを切らした信長は1580年、朝廷に仲裁を願い出、石山本願寺と講和します。
19カ条の折檻状でそれまでの功績を全否定
そして、信長は同年、19カ条におよぶ折檻状を信盛に送り付けます。この折檻状の中で、信長は信盛に対して5年もの間なんの功績も挙げていない、期待通りの働きができないなら謀略などをこらし、足りないところを報告して意見を聞きに来るべきだなどと石山合戦での怠慢を叱責。前述の朝倉義景との戦いの時のエピソードにも触れ、自分の正当性を吹聴して信長の面目を失わせたにも関わらず、口ほどにもなく大坂で陣を張り続けたのはひきょうであると厳しく非難しています。
そして人使いの問題点などにも細かく触れた上で、「どこかの敵を平らげ、恥をそそいで帰参するか、討ち死にする」か、「頭を丸めて高野山にでも隠居して許しを乞う」かのどちらかだと決断を迫りました。信盛は前者で名誉を回復する道を選ばず、後者を選択。しかし高野山での隠居も許されず、翌年病死したとも、高野山で生涯を閉じたともいわれています。
信長は折檻状の中で信盛に対し、奉公した30年の間、比類ない活躍は一度もないと批判しています。しかし、幾多の戦いで信盛が功を上げたのは間違いありません。そうでなければ、能力主義の織田家にあって石山合戦の司令官に抜てきされることなどないからです。信長が信盛にかなりの信頼を置いていたのは確かだと思われます。それが、最後には信を失い、それまでの功績を全否定されることになってしまいました。
信盛の足跡をたどると、信頼を得ることの重要性、難しさを改めて教えられるように思います。信長が家督を継いでから、信盛は信長に仕え続けました。そしてその中で信頼を勝ち取り、重要な役割を与えられました。しかし、その後の言動により、それを台無しにしてしまいました。
ビジネスにおいて私たちは、上司、部下、取引先、パートナーなど、さまざまな人、会社との信頼関係を築きながら、仕事をしています。そうした関係なくしては、ビジネスは成り立ちません。しかし、いくら強固に信頼関係を構築しても、ちょっとした行動や言葉でひびが入り、さらに成果が伴わないことなどが続くうちに崩れてしまうことは珍しくありません。こうした戒めを、信盛の足跡は教えてくれるように思います。
そして、失った信頼を回復するには、行動と成果で示すしかないのかもしれません、信長の19カ条の折檻状を受け取った後、もし、信盛が恥をそそぐ道を選び、成果を上げ帰参することに成功していたらーー。信長の信頼を取り戻し、「信長を見返した織田家屈指の名将」として信盛は歴史の教科書にも大きく取り上げられていたのではないでしょうか。