名将の陰に名僧あり。人間形成を行う幼少期の教育係として、折々の相談役として、また策を授ける参謀として、多くの僧が戦国武将の活躍を支えていました。織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も、こうした僧なくしては私たちが知る活躍はなし得なかったでしょう。
今回から、戦国武将が僧侶から受けた教えに焦点を当て、シリーズとして紹介していきます。第1回は、伊達政宗を育てた虎哉宗乙(こさい・そういつ)の教えです。
虎哉は、1530年に美濃国(現・岐阜県)で生まれました。虎千代と呼ばれていた子どもの頃から天才の呼び声高く、近くの寺から聞こえる読経を耳にして、その経をすべて暗記してしまったというエピソードが残っています。のちに岐秀元伯(ぎしゅう・げんぱく)、快川紹喜(かいせん・じょうき)という臨済宗妙心寺派の高僧に師事して修行を重ね、自らも名僧として知られるようになりました。
東北地方を巡歴した折、虎哉は東昌寺という寺を訪れます。東昌寺の住職・大有康甫(だいゆう・こうほ)は、奥州の武将・伊達輝宗の叔父に当たる人物。これが縁で輝宗の知遇を得、輝宗は6歳になる嫡男・梵天丸(後の伊達政宗)の教育係となるよう虎哉に依頼します。虎哉は固辞するものの、器量を見込んだ輝宗に説得され、1572年、奥州に赴くことになりました。
虎哉の教えは“へそ曲がり”で知られています。例えば、梵天丸に言ったという次の言葉。
「痛ければ痛くないと言え、悲しければ笑え、暑ければ寒いと言え」
感じていることと逆のことをしろという、へそ曲がりです。しかし、これはひねくれろということではありません。人の上に立つものは簡単に物事に動じるようではいけない、常に冷静でないと判断を誤るという帝王学を、後に伊達家を継ぐことになる梵天丸に授けたのです。
また、虎哉は「他人の前で横になるな」とも言いました。これも、ずっと立っていろという単なるへそ曲がりではありません。眠いからといってすぐに横になるようでは示しがつかない、常に見られてもいい姿勢でいろという、リーダーとしての心構えです。政宗は、たとえ病床にあっても家臣と顔を合わせるときには体を起こし、生涯この教えを守ったといいます。
もう1つの教え「虚心」に込めたもの…
伊達政宗は、独眼竜の異名を持つ武将です。元服する前の梵天丸を名乗っていた時代に天然痘にかかり、その患いから右目を失明しました。梵天丸は、自分が単眼になったことを気に病んでいました。武将としての将来も憂いたことでしょう。そこで虎哉は、中国に伝わる話をします。
唐の時代に、李克用という人物がいました。李克用は勇猛な武将で後唐の皇帝にまで上り詰めましたが、彼は片方の目が極端に小さく、眼帯をしていました――。この話を聞いた梵天丸は大いに勇気づけられ、以降、単眼を気に病むことはなかったといいます。
梵天丸が虎哉から直接教育を施されたのは6歳から10歳までの間でしたが、11歳で元服して伊達政宗となり、18歳で家督を継いだ後も虎哉は奥州に残り、政宗を支え続けました。
1589年、政宗が23歳のとき、摺上原の戦いで宿敵の蘆名氏を滅ぼし、奥州で一大勢力を築きます。しかし翌年、飛ぶ鳥を落とす勢いの政宗に試練が訪れます。天下統一にまい進する秀吉が関東の北条氏と対立し、北条の居城である小田原城に攻め込んだのです。あの、秀吉の小田原攻めです。
秀吉は、自分の下に参じて戦いに加わるよう、幾度も政宗を促します。しかし、伊達家は北条と同盟関係にありました。秀吉の下で小田原攻めに加わるか、それとも北条側に付いて豊臣勢と戦うか。当然、自分の運命を大きく左右することになり、政宗は判断に迷います。
最終的には秀吉に付くことに決めますが、自分の意に沿おうとしなかった政宗に対して秀吉が怒りを持っていることは明らかでした。
どのように秀吉にわびるべきか。政宗は虎哉に助言を求めます。虎哉の答えは、「虚心」でした。何のこだわりも持たず、素直な心で臨めということです。秀吉に助命を懇願するような態度は虚心ではありません。自分の命にもこだわりを持たないのが真の虚心です。小田原に参じた政宗は、死を覚悟していることを示すため、全身白装束に身を包んで秀吉に謁見しました。
対する秀吉も、さまざまな人を見てきた人物です。政宗に会うとその覚悟を見て取り、遅参を許すことにしました。
その後も虎哉は政宗の移封に随行し、伊達家に仕え続けます。政宗も戦地から書簡を送るなど、虎哉を師として慕い続けました。
時代は徳川の世になり、1611年に虎哉は没し、政宗は初代仙台藩主として領地経営に手腕を発揮し、1636年に世を去りました。
奥州の覇者・伊達政宗を育てた虎哉の教えには、現代に通じるものが多くあります。人間は感情が揺れていると的確な判断がしづらくなるものです。「痛ければ痛くないと言え、悲しければ笑え、暑ければ寒いと言え」というのは、現代のリーダー論として捉えることもできます。
さらに、秀吉の小田原攻めに際して虎哉が政宗に送った「虚心」は、多くの示唆に富む言葉です。
マネジメントする立場では、部下のミス、時には自分のミスでクライアントに謝罪しなければならないシチュエーションもあるでしょう。このエピソードは、ミスがあったときには、素直な気持ちで相手に謝罪をすることの大切さを示しています。
また、自分の運命を左右するほど重要な局面に立ったときには、保身など我欲にとらわれることなく虚心で臨むこと。それが運命を切り開くということも、虎哉は教えてくれているのではないでしょうか。