上杉謙信は、戦にめっぽう強い軍神として、また大義名分のない戦をしない義の武将として知られています。
前回は伊達政宗を育てた虎哉宗乙(こさい・そういつ)を紹介しましたが、この謙信も天室光育(てんしつ・こういく)、益翁宗謙(やくおう・しゅうけん)という2人の僧侶に教えを受け、その教えが人格形成に深く寄与しています。
謙信は1530年、越後(現・新潟県)の守護代を務める長尾為景の四男(次男、三男説もあり)として生まれました。謙信は7歳のとき、為景の居城である春日山城にほど近い曹洞宗の寺、林泉寺に預けられます。この林泉寺で教育に当たったのが、6世住職の天室光育でした。
天室光育は、幼い謙信に対しても厳しく指導します。その中心となったのが、「信心を益深す」「怨憎を漸減す」「遊浮の心少なし」などを内容とする十徳でした。
「信心を益深す」は仏に対する信心を強く持つ、「怨憎を漸減す」は恨みや憎しみを減らしていくという意味で、現代のアンガーマネジメントにも通じるものです。「遊浮の心少なし」は、浮ついた心を少なくするという箴言(しんげん)です。
こうして謙信は7年間、天室光育から信仰心や人生における心構えをたたき込まれました。このとき培ったものが、謙信という人物の基礎となったことは想像に難くありません。謙信は生涯、仏教に深く帰依し続けました。
謙信は14歳で元服し、内乱の鎮圧など武将として歩み始めます。林泉寺の住職は天室光育から弟子の益翁宗謙に引き継がれますが、謙信は変わらず参禅を続け、益翁宗謙から教えを受けました。
ある日、益翁宗謙は謙信に、「達磨大師が『不識』といった意味は何か」という問いを出しました。これは、禅の公案集『碧巌(へきがん)録』にも載っている「達磨不識」の話に基づくものです。
謙信が大切にした言葉…
5世紀にインドに生まれた達磨大師は、中国に渡って禅を伝えました。時は南北朝時代。南朝の梁の武帝は仏教に深く帰依しており、達磨大師を宮中に迎えて教えを乞います。
武帝は仏教の教えを広く伝えるため、自ら経典の講義を行い、寺院を建立して僧侶を厚く遇していました。これにより、「自分にはどのような功徳かあるでしょうか」と達磨大師に尋ねます。大師の答えは「無功徳(功徳などない)」。自分の善行には報いがあってしかるべきだと思っていた武帝は、出ばなをくじかれます。
次に武帝は、「仏法の聖なる真理の第一義は何でしょうか」と質問します。第一義とは、根本的な意義です。これに対し、達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう:すべてはからりと晴れ渡っており、聖なるものなどない)」と答えました。
善行に功徳はなく、仏法にも聖なるものはない。自分が行い、帰依してきたものを否定されたように思った武帝は、「そのように言う、わたしの目の前にいるあなたは誰ですか」と尋ねます。これに対して達磨が返した答えが、「不識(知らぬ)」でした。
この話でなぜ達磨が「不識」と言ったのか、益翁宗謙は謙信に問うたのです。
謙信は数カ月、師の問いを考え続けました。そしてある日、こつぜんと悟りました。益翁宗謙は、その様子から謙信がある答えに達したと分かったようです。
謙信は、「不識」と「第一義」という言葉を生涯において大切にしています。謙信は1570年に出家したとき、「不識」と師の諱(いみな)から「謙」の字を取り、不識庵謙信と号しました。それまで輝虎と名乗っていたのが私たちになじみのある謙信の名前となったのは、このときからです。
また謙信は「第一義」を座右の銘とし、林泉寺に山門を寄進したときには扁額(へんがく)に「第一義」と揮毫(きごう)しました。
謙信は「不識」「第一義」という言葉にどのような意味を見いだし、師の教えと受け止めたのかは、史料にはっきりと残されていません。
しかし、ヒントがあります。謙信は、他の多くの武将とは異なる価値観で行動していた人物でした。自分の領国経営には熱心に取り組みますが、領土拡大はめざしません。武田信玄と相対した川中島の合戦は、自分を頼ってきた村上義清や小笠原長時を助けるためでしたし、北条氏との戦いで関東出兵したのは関東管領(かんれい)・上杉憲政を助けるためでした。
敵からも一目置かれ、戦いを交えた武田信玄でさえ、死の床で「甲斐の国に何かあれば謙信を頼れ」と言い遺(のこ)したほどでした。
謙信から透けて見えるのは、武将としての見せかけや名前などは「不識」で知らず、武将としてではなく人間としての根本的な意義「第一義」を大切にする姿勢ではないでしょうか。
謙信が益翁宗謙から受けた教えをこのように捉えると、現代のビジネスの世界に生きる私たちに対する大きな問いかけが浮かび上がります。働いているときも企業の名前、企業人としての立場は関係なく、人間としての根本的な意義に基づいて行動できているかという、極めて大きな問いです。