ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
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公開日:2022.04.11
戦国時代に武将が生き残るために、また状況を有利に進めるために、有力武将への臣従、諸将の説伏、戦の和議などの「交渉」は重要な意味を持ちました。
本連載の第23回でも取り上げた黒田官兵衛は軍師として名高い武将ですが、交渉にも優れた才能を発揮しました。今回は、交渉人としての黒田官兵衛にスポットを当てます。
官兵衛は1546年、播磨国(はりまのくに/現・兵庫県)の武将・黒田職隆(もとたか)の嫡男として生まれました。職隆は地元の大名・小寺氏の家老で、官兵衛は1567年に家督を継ぎます。
その頃、播磨の東からは尾張国(現・愛知県)の織田信長が、西からは安芸国(あきのくに/現・広島県)の毛利輝元が勢力を伸ばしていました。小寺氏は両者の間に挟まれ、どちらに付くか、判断を迫られます。
ここで官兵衛は、主君である小寺政職(まさもと)に信長側に付くように進言。小寺氏の使者として1575年に岐阜城を訪れ、織田信長に謁見しました。これが、交渉人としての官兵衛の最初の仕事だといってもいいでしょう。
小寺氏の一統が臣従する意思があることを伝えると、信長は喜び、官兵衛に刀を授けました。これが、現在国宝になっている名刀「圧切長谷部(へしきりはせべ)」です。
信長の満悦は小寺氏の臣従によるところが大きいと思われますが、このあたりは官兵衛の如才のなさも感じさせます。こうして、小寺氏と共に官兵衛は信長の臣下に入りました。
そして官兵衛は、小寺氏以外の播磨の武将たちに対し、信長の側に付くように次々と説得を試みました。交渉人・官兵衛の面目躍如です。
ただ、播磨の武将の1人である荒木村重を説得するため単身で有岡城に乗り込んだところ、逆に捕らえられてしまい1年近く幽閉されることに。この経験が交渉人としての官兵衛に慎重さをもたらし、交渉力をさらに増す要因になりました。
もちろん官兵衛の能力は交渉だけではありません。戦の場でもその才を存分に発揮します。1577年の英賀(あが)合戦では、5000の軍勢で攻め込んできた毛利軍に対して約500の兵で奇襲を仕掛け、見事に敗走させました。
1581年の鳥取城をめぐる吉川経家との戦いでは兵糧攻めを、1582年の備中高松城の攻防では水攻めを成功させます。
1582年6月、本能寺で信長が明智光秀に討たれると、毛利氏と相対していた秀吉に講和を進言し、中国大返しを促したのも官兵衛。官兵衛は秀吉に付き、山崎に向かって秀吉と共に明智軍を討伐し、以降は秀吉の配下に付くことになりました。
そして、官兵衛の交渉力が遺憾なく発揮されたのが、1590年の秀吉の小田原攻めです。
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