私たちを取り巻く状況は、常に変化しています。私たちは未来を事前に見ることはできません。複雑な要素が絡み合う状況がこの先どのように変化するか、正確に見通すことはおそらく不可能です。しかし、どのような変化があり得るか、ある程度予測しておかないと大きな失敗の原因になります。
1555年、厳島の戦いで毛利元就に敗れ、自害に至った陶晴賢(すえ・はるかた)も、状況の変化を予測できていたら運命が変わっていたかもしれません。
陶晴賢は、周防国(現・山口県東部)を本拠に中国地方で一大勢力を誇る大内氏の重臣でした。しかし1551年、主君である大内義隆に反旗を翻して義隆を討ち、大内氏の実権を握ります。
同じく大内氏に仕えていた毛利元就はしばらく晴賢と行動を共にしていましたが、安芸国(現・広島県西部)を中心に勢力を伸ばしていく元就を晴賢は疎ましく思うようになり、2人は対立関係になります。
元就としては、大内氏の勢力をそのまま受け継いだ晴賢を討てば、中国地方の覇権を握ることができます。しかし当時、元就軍は約4000人。一方、晴賢軍は約2万人。元就は圧倒的に不利な状況にあります。そこで、元就は安芸の厳島に晴賢軍を誘い込む策略を立てました。
元就は厳島の宮尾城を改修し、ここに己斐直之、新里宮内少輔を置きました。2人は元大内氏の家臣で、晴賢の側から寝返った形の武将。こうした人物を配することで、晴賢を挑発します。
さらに臣下の桂元澄に、「晴賢が厳島に攻め入れば、その隙に私の軍が毛利の本拠である吉田城を奪います」という内容の密書を晴賢に送らせました。この内容は嘘なのですが、元澄の父は元就によって自刃に追い込まれており、元澄が元就を裏切ってもおかしくないと晴賢は推察します。
狭い厳島を舞台にすれば不利になると家臣は晴賢に進言しますが、晴賢は厳島に軍を進めることを決めます。要因のひとつは、水軍です。厳島は、安芸の沖に浮かぶ島。戦では、水軍の力が大きく戦況を左右します。晴賢の配下にある水軍は、500艘。対して、元就の側は120艘ほどしかありません。晴賢が圧倒的で、海を押さえることができる自分達が有利と晴賢が判断するのは理がないことではありません。晴賢は軍を厳島に上陸させ、宮尾城攻めに入ります。
陶晴賢を敗北に追い詰めた「盲点」…
元就も、水軍が重要だという点は十分に理解していました。そこで、瀬戸内海を支配していた村上水軍に援軍を依頼することにします。村上水軍は、本拠とする島により能島村上氏、来島村上氏、因島村上氏に分かれていました。このうち、因島村上氏はすでに元就の側に就いていました。そこで、来島村上氏の説得にかかります。
来島村上氏は毛利とつながりがありましたが、ここで判断を誤ると自分達の家の存亡に関わることになります。すぐに快い返答をするわけにはいきませんでした。しかし、やがて来島村上氏が元就の側に付くことを決めると、元就は暴風雨の中、晴賢軍が陣取る厳島に軍を渡らせました。元就軍は、背後に回って晴賢軍を急襲。暴風雨で敵襲はないと思っていた晴賢軍は劣勢で海辺に押しやられますが、頼みの水軍は村上水軍の攻撃を受けて壊滅状態。完全に行く手を失い、晴賢は自刃して果てました。
厳島の戦いの前、軍勢で比較すれば晴賢の方が圧倒的に有利でした。狭い厳島で戦うことになれば軍勢の差がそのまま戦況に反映されないことになる面はあったとしても、厳島に軍を進めるという晴賢の判断はあり得ないことではありません。
しかしその後、来島村上氏が元就の側に付き、500艘の大船団を形成する自軍の水軍が壊滅させられたのは誤算でした。
ただ、この状況も、想定するのは決して不可能ではなかったと思われます。元就の三男・隆景の養女は、伊予国(現・愛媛県)守護の河野氏に嫁いでいます。来島村上氏が本拠とする来島は伊予にあり、来島村上氏は河野氏の重臣です。元就と来島村上氏は、河野氏を通じてつながっているのです。
また、来島村上氏の本家筋にあたる能島村上氏と晴賢は海上通行料をめぐっていざこざを起こしており、来島村上氏をはじめ、村上水軍が晴賢の側に付くのは考えにくい事態でした。
もし、来島村上氏が元就の側に付くことを晴賢が予測していたら、決戦を急ぐことなく厳島以外の場所で軍を交え、まったく違った運命をたどっていた可能性があります。
このように、状況の変化を予測できずに失敗に至った例は他の武将にもあります。豊臣秀吉の下で出世を重ねた仙石秀久は、九州攻めの際に軍監(軍事監督)に命じられ、長宗我部元親、十河存保らの軍と合流します。秀吉からは豊臣の本隊が到着するまで待つように命じられますが、秀久は独断で島津軍との戦いに入り、無惨に敗走。秀吉は激怒し、領地没収・謹慎という厳しい処分を受けました。
実は、秀久は前年に間者(スパイ)として九州に入っており、敵情も視察していました。その情報を元に交戦との判断をしたのですが、前年と状況が変わっていたと思われるのです。
状況を把握するためには、情報が不可欠です。現代の企業でもマーケット調査、競合企業調査、パートナー企業調査などさまざまな調査を行い、現況の把握に努めることと思います。しかし、こうした調査の結果得られる情報は、どんなに直近の調査であってもすべて過去のものです。将来の状態を保証するものではありません。
状況は常に変化しています。過去の状況を絶対的なもの、固定的なものと捉えるのではなく、どのように変化する可能性があるのかを頭の片隅に置いておく。この必要性を、陶晴賢、仙石秀久の事例は語りかけているように思います。