戦国時代には戦の拠点として、そして戦後の世が終わった江戸時代には権威の象徴、また地域の中心として重要な役割を果たしたのが城です。歴史上には、築城の名人といわれた武将がいました。本稿ではそうした武将の城造りからビジネスのヒントを探るシリーズの第1回として、加藤清正を取り上げます。
幼い頃から豊臣秀吉に仕え、秀吉子飼いの武将といわれた清正は、秀吉の下で名護屋城、指月伏見城の築城を行い、秀吉没後は徳川家康の下で江戸城、名古屋城などの建設に携わるなど、数々の城でその腕を発揮しました。しかし、築城の名人として清正の名を広く知らしめたのは、なんといっても熊本城です。
熊本城はその壮麗さとともに、堅固なことで有名です。幕末の西南戦争では薩摩藩の西郷隆盛が政府軍の籠城する熊本城を攻めましたが、2カ月かけても落城させることができず、「官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」と語ったという話が残っています。
清正は1600年頃から約7年かけて熊本城を完成させましたが、熊本城を難攻不落の城としたことの背景には、慶長の役での体験がありました。
秀吉の忠臣だった清正は、秀吉の朝鮮出兵に参加。1597年からの慶長の役でも、朝鮮半島に乗り込みました。左軍の先鋒(せんぽう)となった小西行長に対し右軍の先鋒(せんぽう)を任された清正は、慶尚道の日本海沿いの町・蔚山に戦線東端の拠点を設けることにします。約2カ月の突貫工事で、蔚山城(うるさんじょう)が完成。そこに明・朝鮮軍が攻め込んできました。
一応の完成は見たものの蔚山城の堀や土塁はもろく、城を囲む惣構は早々に突破され、明・朝鮮軍に包囲されてしまいます。冬の蔚山の寒さに加え、水・食料が尽き、清正らの籠城軍は厳寒と飢餓で追い詰められます。しかし籠城14日目に毛利吉成らの救援部隊が到着し、九死に一生を得ました。
秀吉の没後、家康についた清正は関ヶ原の戦いで、関ヶ原には赴きませんでしたが、九州における東軍の将として小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城などを攻略し、九州の西軍勢力を次々と破ります。その戦功が認められ、肥後52万石のあるじとなった清正は、中世の隈本城があった高台に自らの居城を造ることにしました。
清正の頭には、3年前の蔚山での記憶が強く残っています。そこで意識したのが、徹底的に守りに強い城です。
攻め込ませず籠城に強い堅固な熊本城の秘密…
まず、場所を隈本城のあった高台の南端としました。そして北側に堀割を入れ、高台の北側と分離します。こうすることで北を堀割に、他の三方を崖に囲まれた場所ができあがります。そして近くを流れる坪井川の流れを変え、井芹川とともに川が城を囲むようにしました。これで、川と堀割に囲まれた崖上の高台という、容易に攻めることができない条件が整います。
もちろん、城自体にも守りの工夫を凝らしています。その象徴が石垣です。熊本城の石垣は、下の方では勾配が緩く、上に行くにつれて急勾配となるもので、「扇の勾配」「武者返し」とも呼ばれる侵入が難しいものです。この石積みの技術は門外不出で、造営の際は幕を張って見えないようにしたといわれています。
清正は熊本城に石垣を巡らせ、その上に櫓(やぐら)をいくつも置いて守りを固め、さらに侵入してきた敵を塀で囲い込む枡形虎口という仕掛けを設けるなど、堅固な城造りに努めました。
清正流の堅固な石垣は評価が高く、清正はその後、江戸城、名古屋城でも石垣を担当しました。名古屋城には清正の名前が刻まれた「清正石」という巨石と、清正が石曳きを鼓舞する「石曳きの像」があります。
清正は、蔚山城の籠城戦で水・食料が尽き、飢餓に苦しめられました。その体験から、熊本城は籠城戦にも対応した造りになっています。
城内には100を超える井戸を掘り、城にこもっても水が切れないようになっています。そして兵糧攻めに備え、土壁にはかんぴょうを塗り込め、畳には芋茎(ずいき)を編み込み、籠城で食料が尽きた際には食料にできるようにしていたとされます。また城内にはいちょうの木が多く植えられ、「銀杏城」という別名の由来になっています。いずれも、籠城時の非常食と考えてのものです。
また、熊本城には「昭君之間」という部屋があります。秀吉の忠臣だった清正は、秀吉の遺児である秀頼に危機が迫ったとき、この部屋にかくまうつもりだったといわれています。昭君之間へは、表の廊下のほかに隠れ道も用意され、秀頼が籠城するための体制が整えられていました。
清正は熊本城で実際に戦いを交えることはなく、その堅固さを敵に対して証明する機会はありませんでした。しかし熊本城の建設により築城の名人とされるようになり、江戸城、名古屋城でも熊本城で培った技術を発揮することになります。その元になったのが、蔚山城での苦戦でした。
学びに関して、体験と経験の違いということがいわれます。両者にはさまざまな定義がありますが、一般的に、体験は自分自身で見聞きしたり行ったりすること、経験は体験から知識・知恵・技能を得ることとされています。
ドイツの哲学者、教育学者であるO.F.ボルノーは、「経験すると人はよく言うが、彼が出会うのはまず意味のない事実である。それを持続的に自分に同化し、自分の将来の態度を決めるための『教え』を引き出して初めて、それは経験となる」と言っています。
これに沿って言えば、清正は蔚山で出会った事実を持続的に自分に同化し、教えを引き出して経験とし、熊本城を始めとしたその後の築城に活かしたといえるでしょう。
私たちは、日々、さまざまな体験をします。そのすべてを学びにする必要はないかもしれませんが、学びを引き出せる体験は経験として、自分の中に積み上げる。そのことが成長につながることを、築城名人の清正は示してくれています。