ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
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公開日:2022.12.12
織田信長、豊臣秀吉に仕えた黒田官兵衛は知略に富んだ軍師として名高い武将ですが、城造りの名人でもありました。本シリーズの3回目は、築城名人としての官兵衛にスポットを当てます。
官兵衛は播磨国(現・兵庫県)の大名・小寺氏に仕える家に生まれ、幼くして小寺政職の近習になります。のちに信長に臣従することになり、信長の重臣である秀吉の下でその能力を遺憾なく発揮しました。
1577年に始まった秀吉の中国攻めでは、吉川経家の鳥取城を兵糧攻めで攻め落とし、清水宗治が守る備中高松城での戦いでは秀吉に水攻めを進言。冷静に最善手を生み出す智謀(ちぼう)で秀吉の進撃を支えます。
この備中高松城の攻防戦のさなかには、信長が明智光秀により本能寺で討たれたとの報が入りました。秀吉は毛利氏と和睦を結びすぐ京に向かいましたが、この有名な「中国大返し」も官兵衛の献策によるものと言われています。
官兵衛が築城の才を見せるようになったのも、中国攻めの間のことでした。1580年、秀吉は官兵衛が居城としていた姫路城を譲り受け、中国地方における拠点とするべく官兵衛に改修を指示します。
官兵衛は櫓(やぐら)や門を新たに設け、堀や石垣を整え、3層からなる天守を築きました。現在の壮麗な姫路城はのちに池田輝政が大改築を行って誕生したものですが、その元になったのは官兵衛による改修でした。
姫路城での仕事を評価した秀吉は、1583年に大坂城の築城にとりかかる際、官兵衛に縄張りを任せます。縄張りというのは、堀や土塁、櫓(やぐら)、門などの配置を決める城のグランドデザインです。大坂城はその後、徳川家康・秀忠が新たに築城し直したものが現在にまでつながっていますが、秀吉時代の石垣も地下から発掘されています。
秀吉の九州征伐でも功(こう)を上げた官兵衛は、豊前国(現・福岡県東部、大分県北西部)12万石を拝領。1587年、この地で改修や縄張りといった部分的な形ではなく、全面的に関わる城づくりを行います。そうしてできたのが、中津城です。
江戸幕府成立以降にできた城は、実戦のことも考えられていたものの、基本的に領主の権威を象徴的に表す意味合いが強いものでした。しかしこの頃はまだ戦国の世が終わっておらず、街の中心としての役割を果たしながらも、戦における守りの機能にも重きが置かれています。
中津城の地は山国川の河口で、北側と西側は天然の堀になっています。そして官兵衛は東側と南側に堀を設け、地形を生かしながら水に囲まれた要塞(ようさい)にしました。山中や崖に面した城ではなく、壮麗な天守閣はないため高さはありませんが、本丸を高さの違う上段と下段に分けて敵が攻めにくくしています。本丸、二の丸、三の丸が扇形になっているため、中津城は「扇城」とも呼ばれました。石垣も高さはないものの、四角に加工された石が組み合わされた頑丈なものです。
そして、官兵衛はこの城を城下の町が守るように町づくりを行いました。三方に下級武士の屋敷を置いて守りを固め、大手門の前には商人を集めます。外郭には寺社を配し、さらに町全体を土塁で囲んで要塞(ようさい)都市のような形にしました。
この中津城をさらに発展させたのが、1601年から息子の長政とともに造り上げた福岡城です。
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