戦国武将に学ぶ経営のヒント(第93回)どうした家康(1)一向一揆への対処で見せた家康の「冷酷」と「寛大」

歴史・名言

公開日:2023.03.13

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 1月から、NHKの大河ドラマ「どうする家康」が始まりました。主人公は、タイトルにある通り徳川家康。松本潤さん演じる家康が、人生で出会う折々の事件、出来事の中でどのような判断をしたのかを中心に、話が進んでいきます。

 2月19日に放送された第7回「わしの家」で取り上げられたのは、地元の三河(現・愛知県東部)で起きた一向一揆。家康の三大危機の一つにも数えられているこの出来事で、家康はどのような判断をしたのでしょう。

 1542年※に生まれた家康は、幼少の頃から駿河国(現・静岡県中部)、遠江国(現・静岡県西部)、三河国を治める有力大名・今川氏の保護下にありました。しかし、1560年の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れると、これを契機に今川氏から独立。三河で勢力を伸ばしていきます。

 そして1562年、西の織田信長と軍事同盟である清洲同盟を結び、三河の統一を目指しました。しかし翌1563年、三河で浄土真宗の一派である一向宗の門徒が反乱を起こし、一揆に発展します。

 一向一揆が起きた原因については、いくつかの説があります。その頃、寺院には課税や領地への外部権力の立ち入りを拒否できる不入権が認められていました。三河にある本證寺に無法者が侵入した際、家康の家臣が寺内に入って捕縛しましたが、これが不入権の侵害にあたるとして本證寺側が反発。一揆になったというのがその一つです。また、同じく三河にある上宮寺に家康の家臣が入り、兵糧を奪ったことがきっかけだったという説もあります。

 背景として考えられるのは、家康は戦続きで兵糧を必要としており、三河の寺院からの年貢徴収を考えていたと思われる節があること。また当時、寺院が水運や商業に大きな力を持っており、三河を支配したい家康と潜在的な対立関係にあったことが挙げられます。

 寺院側の反発に対して家康が強硬な姿勢を見せたため、さらに反発は激しくなりました。そして、上宮寺、本證寺、勝鬘寺の三寺に門徒が集結。国人や農民らもこれに加わり、武力衝突が避けられない情勢となりました。

 家康にとって誤算だったのは、家臣から一揆側に付く者が続出したこと。その頃、一向宗は三河に多くの門徒を持っており、その中には渡辺守綱、蜂屋貞次、本多正信・正重など、家康の家臣が少なからずいたのです。こうした勢力だけでなく家康に反感を持っていた国衆などが加わり、家康側と相対しました。

 衝突がいくつかあったあと、年が明け1564年になると戦いが本格化。大久保忠勝・忠世が守る上和田のとりでに一揆衆が攻め入った上和田の戦いでは、家康が自ら出陣し、被弾するなど、激しい戦闘が繰り広げられました。

 しかし、一揆側は門徒、家康の家臣、国人、農民らが入り交じった成軍で、家康のように全体を統率する強力なリーダーがおらず、まとまりきれません。また、一揆側に付いた家康の家臣も、家康に対する忠誠と信仰の間で揺れ動き、家康が出陣するようになると勢いが鈍ります。

 次第に家康側が優勢になり、同年2月、一揆勢は家康に和議を提案しました。主な条件は、「一揆を企てた者、加わった者の命を保障する」「寺院については(不入権を持った)以前と同じ状態にする」の二つです。家康はこれを受け入れ、一揆は解散しました。しかし、話はこれで終わらなかったのです。

一揆を企てた寺院に課せられたのは………

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