戦国武将に学ぶビジネスのヒント(第99回)知将・黒田官兵衛の「状況に応じて戦略を立てる力」

歴史・名言

公開日:2024.07.23

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 数々の奇抜な戦略で戦を勝利に導き、名軍師として知られているのが黒田官兵衛です。信長、秀吉、家康の3人に重宝された一方、勝利のためには時に非情な戦術を採り、恐れられた人物でもあります。
 官兵衛は1546年、播磨国(現・兵庫県)の大名・小寺(こでら)氏の家老を務める黒田職隆(もとたか)の嫡男として生まれました。
 官兵衛は、1567年に家督を継ぎます。その頃、西からは毛利輝元、東からは織田信長が勢力を伸ばし、小寺氏はその間に挟まれる形になりました。ここで官兵衛は、信長側に付くよう主君の小寺政職(まさもと)に進言。共に信長の配下に入りました。

 官兵衛の名を高めたのが、1577年の英賀(あが)合戦です。毛利氏の一門である乃美宗勝が、兵を率いて播磨・英賀の浦に上陸、官兵衛のいる姫路城に迫ろうとしました。宗勝の兵は5000で、官兵衛の兵は500。圧倒的な兵力差です。まともに戦っては、勝負になりません。
 そこで、官兵衛はブラフをかけることにします。長時間の船旅で宗勝の兵にまだ疲れが残っているところ、官兵衛は自らの兵を動かして奇襲を仕掛けました。宗勝側が混乱に陥ったところ、背後の山に待機していた近隣の農民が旗やのぼりをたなびかせます。大軍が攻めてくると勘違いした宗勝の軍は、あわてて退却。官兵衛は敵軍を追い返すことに成功します。

 その後、官兵衛は信長の家臣として頭角を現していた豊臣秀吉の下で、信長の中国攻めに加わりました。この中国攻めで有名なのが、「三木の干殺(ひごろ)し」「鳥取の渇(かつ)え殺し」「備中高松城の水攻め」です。
 1578年、秀吉軍は毛利方の別所長治の居城である三木城に迫りました。三木城は東西約600m、南北約700mという大城郭です。三方を崖に囲まれ、難攻不落とも言われました。長治はここに、東播磨一帯から集めた7500人とともに籠城します。

 城が堅固な上、勢が大きく、攻め落とすのは容易ではありません。官兵衛はこの状況を逆手に取ります。三木城は三方を崖に囲まれ、もう一方は山と谷になっています。攻めにくい立地ですが、裏を返せば孤立させやすい環境とも言えます。また、兵が多いと城の中で多くの兵糧が必要になります。ここに弱点がありました。
 官兵衛は堀や柵などを設けて、城への食糧の補給路を分断。三木城を孤立させます。三木城の中にも蓄えはありますが、数千人が日々消費するため、食糧は見る見る減っていきました。次第に城内は餓死者が続出し、地獄絵図と化します。それでも長治は耐え忍んでいましたが、結局1年10カ月で三木城は陥落しました。官兵衛は、続く因幡国(現・鳥取県)の鳥取城攻めでも同じように食糧の補給路を断ち、兵糧攻めを成功させます。

恐怖の兵糧攻めを披露した官兵衛の次なる戦略とは……

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