数々の奇抜な戦略で戦を勝利に導き、名軍師として知られているのが黒田官兵衛です。信長、秀吉、家康の3人に重宝された一方、勝利のためには時に非情な戦術を採り、恐れられた人物でもあります。
官兵衛は1546年、播磨国(現・兵庫県)の大名・小寺(こでら)氏の家老を務める黒田職隆(もとたか)の嫡男として生まれました。
官兵衛は、1567年に家督を継ぎます。その頃、西からは毛利輝元、東からは織田信長が勢力を伸ばし、小寺氏はその間に挟まれる形になりました。ここで官兵衛は、信長側に付くよう主君の小寺政職(まさもと)に進言。共に信長の配下に入りました。
官兵衛の名を高めたのが、1577年の英賀(あが)合戦です。毛利氏の一門である乃美宗勝が、兵を率いて播磨・英賀の浦に上陸、官兵衛のいる姫路城に迫ろうとしました。宗勝の兵は5000で、官兵衛の兵は500。圧倒的な兵力差です。まともに戦っては、勝負になりません。
そこで、官兵衛はブラフをかけることにします。長時間の船旅で宗勝の兵にまだ疲れが残っているところ、官兵衛は自らの兵を動かして奇襲を仕掛けました。宗勝側が混乱に陥ったところ、背後の山に待機していた近隣の農民が旗やのぼりをたなびかせます。大軍が攻めてくると勘違いした宗勝の軍は、あわてて退却。官兵衛は敵軍を追い返すことに成功します。
その後、官兵衛は信長の家臣として頭角を現していた豊臣秀吉の下で、信長の中国攻めに加わりました。この中国攻めで有名なのが、「三木の干殺(ひごろ)し」「鳥取の渇(かつ)え殺し」「備中高松城の水攻め」です。
1578年、秀吉軍は毛利方の別所長治の居城である三木城に迫りました。三木城は東西約600m、南北約700mという大城郭です。三方を崖に囲まれ、難攻不落とも言われました。長治はここに、東播磨一帯から集めた7500人とともに籠城します。
城が堅固な上、勢が大きく、攻め落とすのは容易ではありません。官兵衛はこの状況を逆手に取ります。三木城は三方を崖に囲まれ、もう一方は山と谷になっています。攻めにくい立地ですが、裏を返せば孤立させやすい環境とも言えます。また、兵が多いと城の中で多くの兵糧が必要になります。ここに弱点がありました。
官兵衛は堀や柵などを設けて、城への食糧の補給路を分断。三木城を孤立させます。三木城の中にも蓄えはありますが、数千人が日々消費するため、食糧は見る見る減っていきました。次第に城内は餓死者が続出し、地獄絵図と化します。それでも長治は耐え忍んでいましたが、結局1年10カ月で三木城は陥落しました。官兵衛は、続く因幡国(現・鳥取県)の鳥取城攻めでも同じように食糧の補給路を断ち、兵糧攻めを成功させます。
恐怖の兵糧攻めを披露した官兵衛の次なる戦略とは……
1582年、秀吉は備中国(現・岡山県)の備中高松城に攻め入りました。官兵衛は、三木城や鳥取城とは違った戦略で挑みます。
備中高松城は周りを沼沢が取り囲み、天然の外堀のような役割を果たしていました。まるで、城が沼沢の中に浮いているようです。官兵衛は、近くを流れる足守川の水を城の周囲に引き込み、城を水没させてしまう戦略を立てます。
官兵衛から献策を受けた秀吉は、長さ約2.7kmにも及ぶ長大な堤防を築き、足守川(あしもりがわ)の水を城の周りに流し込んでいきました。城内は浸水して城主の清水宗治は降伏に追い込まれ、5000の兵の命と引き換えに自害します。
官兵衛というとこれらの兵糧攻め、水攻めが有名ですが、もちろん軍師としての才はそこにだけとどまってはいません。
1585年、秀吉が四国攻めを行い、四国の長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)と相対したときのことです。秀吉軍は讃岐国(現・香川県)に入り、喜岡城、藤岡城と攻め落としていきました。そして、元親のいとこである戸波親武(へわ・ちかたけ)が守る植田城に迫ります。
戦いの前、官兵衛は植田城を偵察しました。ところが、秀吉軍が近づいているにもかかわらず、城の守りが堅固ではありません。不審に思った官兵衛は、元親のいる阿波国(現・徳島県)に向かいます。元親は秀吉の大軍を植田城に誘い込み、前後から挟み撃ちにする計画でした。しかし官兵衛に見破られ、この計画は失敗に終わります。元親は「黒田官兵衛に見破られ、はかりごとが水泡に帰したのは無念千万」と嘆いたようです。
本能寺の変で信長は自害し、世は秀吉の天下となりました。しかし、官兵衛は秀吉のやり方では二代続かず、いずれ家康の世の中になると予言。1598年に長年仕えていた秀吉が没すると、官兵衛の嫡男・長政は家康の養女・栄と結婚。関ヶ原の戦いで官兵衛は家康側につき、家康から筑前国(現・福岡県)をあてがわれて余生を送りました。
官兵衛は数々の戦で有効な戦略を立て、自軍を勝利に導きました。目を引くのは状況を的確に分析し、状況に応じた戦い方を見事に選んでいることです。
英賀の戦いでは、兵力の圧倒的な差を見て取って奇策とも言える策を講じました。三木城、鳥取城攻めでは丈夫な城のつくりを利用し、城を孤立させて兵糧攻めを行いました。一方、備中高松城は水に囲まれていることを逆手に取り、水攻めで落城させます。讃岐の植田城では、状況の不自然さを感じ取り、兵を阿波へと向けました。
官兵衛は、戦に勝つという目的のために、状況によって臨機応変に戦略を変えました。これは、現代のビジネスにも応用できる手法です。
私たちは、ともすると自分が得意としているやり方や、日ごろ慣れているやり方に流れていきがちです。しかし、それが目的達成の上で必ずしも最適であるとは言えません。
例えば、商談に臨むときには相手の状況に応じてアプローチを変えるのが適切です。社内で稟議(りんぎ)書を通す場合にも、社内の状況に応じて出すタイミングや内容を変えるべきでしょう。そのほか、プロモーションの方法や事業の拡大など、状況によって従来とはやり方を変えるのが適切な場合は多々あるでしょう。
最強とも言われた軍師・黒田官兵衛の、状況に応じて策を変える発想から学べることは少なくなさそうです。