社員や元社員から、残業代を主とする未払い賃金の請求を受ける会社が増えている。会社側にある程度の落ち度がある例が大半だが、中には法外な請求をしてくるケースもある。労働者の権利意識の高揚やネットによる情報の広がりに加え、弁護士の参入が請求増加の背景にある。
「〇〇会社代表取締役××××殿」。こんな書き出しで始まる文書が、突然ある学習塾にファクスで送りつけられてきた。そのタイトルは、「団体交渉申し入れ書」となっていた。
これこそ1000万円もの支出を余儀なくされる未払い残業代請求の始まりだった。あるアルバイト講師が、1人でも加入できる合同労働組合に入り、未払い残業代の支払いを求めて団体交渉を申し込んできたのだ。
この塾では、授業1コマ当たりの給与1600円のほか、20分相当の残業代も支給してきた。しかし、授業の準備や残務処理、さらには報告書の作成などによる残業時間は、20分では到底収まらないとして、この講師は未払い残業代の支払いを求めてきたのだ。労働基準法は賃金などの時効を2年と定めているが、時効にかからない残業代の総額は数十万円にのぼった。
もっとも講師側は、実際の残業時間について確たる証拠を持っていたわけではなかった。しかし、トラブルが長引けば他の講師のモチベーション低下を招くなど、経営に悪影響が及びかねない。そこで、塾の社長は団体交渉に応じ、請求をのむ決断をした。団体交渉を申し入れた従業員は1人だが、結局約400人の講師全員に対して未払い残業代を支払うことになり、1000万円もの手痛い出費になった。
経営者サイドからは、不当としか思えない額の請求を受ける例もある。ある運送会社は、自己都合退職した運転手から、弁護士を通して1200万円もの未払い残業代請求に見舞われた。ところが会社側の厳密な計算では、未払い分は400万円にしかならない。3倍もの差になったのは、元運転手が会社の駐車場と自宅との間の往復も、残業時間に入れていたためだった。「何でもかんでも未払い残業代に入れて請求してくる」と、関係者の1人は話す。
こうした“ブラック企業”ならぬ“ブラック社員”は、一昔前なら仲間をつれて会社に押しかけ、数の力で支払いを求めるのが常だった。しかし、今や彼らの“武器”はインターネット。交渉経過を公開したり、会社側の対応を批判したりする文章を載せることで、取引先や消費者からの信用を落とす圧力をかけてくる。
また、当然支払うべきものであっても、未払い残業代は中小企業には大きな負担。労働基準法は、1日8時間を超えた労働に対して最低25%の、休日労働の場合は同35%の割増賃金の支払いを義務づけている。さらに、残業が午後10時以降に及べば、同25%の割増金が加算される。裁判になって敗訴すれば、6%(退職後は14.6%)という高率の遅延損害金も発生する。
主に企業側代理人として労働問題にかかわってきたロア・ユナイテッド法律事務所の竹花元弁護士は、「年収300万円くらいの社員が、1000万円前後の請求をしてくる例は珍しくない。労基法上、多少の問題がある残業代の支払い方をしている会社は少なくないから、対応を間違えると経営に重大な影響が及ぶ」と警告する。それに“風評被害”も重なれば経営への影響は計りしれない。
現役社員が堂々請求
こうした未払い残業代請求の増加は、多くの関係者が指摘している。日本労働弁護団で事務局長を務める嶋﨑量弁護士は、「労働者からの相談も多いし、裁判も増えている。組合がある会社なら労使の交渉で解決できるが、組合がないと裁判沙汰になりかねない」と指摘する。
また、社会保険労務士法人名南経営(名古屋市)の大津章敬氏は、「最近は、在職中の社員が堂々と請求してくる例が目立つ」と話す。その背景には、労働者の権利意識が強くなったことや、ネットにより未払い残業代請求に関する情報収集が容易になったことが挙げられる。
一方で、別の事情も影響しているようだ。この分野に手を伸ばす弁護士が増えてきているのだ。ネット上には、「未払い残業代取り返します」「相談料0円、着手金0円」といった法律事務所の広告が散見される。
法律事務所の中には、消費者金融やクレジット会社に払いすぎた利息を取り返す、「過払い金訴訟」で成長したところが少なくない。ところが、こうした訴訟の時効到来や法律改正もあって、過払い金に関する裁判の件数は2009年をピークに減少している。この状況を受けて、新たな分野として、労働者側の代理人として未払い残業代請求に乗り出す弁護士が増えてきているというわけだ。
定額残業代は慎重に
未払い残業代請求に遭わないためにはどうすればいいのか。下の表に経営者が心がけるべき4カ条をまとめた。
まず、タイムカードなどできちんと労働時間を管理し、労働基準法や就業規則を踏まえて適切な残業代を支払うこと。裁判になれば、パソコンのアクセスログや手帳のメモ程度でも、残業の証拠になり得る。そのため、労働者側に有利な証拠となりそうな勤務時間の厳密な把握が、むしろ会社側の反論材料になるのだ。
名南経営の大津氏は、「紙でもイントラネット上でも、月末にタイムカードを締めたら必ず本人に確認させる。アクセスログで勤務時間を管理し、残業代を支払う手もある」とアドバイスする。
次に、残業代節約の手法ととらえがちな「定額残業制」などの導入は、くれぐれも慎重に行うこと。これは、毎月一定額の残業代を支払う仕組みだが、その額でいくらでも長く働かせていいわけではない。一定の労働時間の対価としてその額を決めることになっており、それを超えて働かせたらば、当然その分の残業代を上乗せして払う必要がある。
ロア・ユナイテッド法律事務所の竹花弁護士は、「裁判所は、定額残業制について会社側に厳しい姿勢を示している。導入するなら、基本給○○万円、残業代××万円と明確に区別して労働契約書に書き込み、その残業代が何時間分の労働の対価かを明記する。実際の労働時間がそれを上回ったらその分は上乗せして払うこと」と指摘する。
残業解消こそ解決策
外回りの営業マンなど、勤務時間の把握が難しい社員の労働時間を、実際の労働時間によらず一定時間に決める「みなし労働時間制」も、安易な導入は控えるべきだ。現在はスマートフォンやタブレット型の端末で勤務時間が把握しやすいからだ。
日本労働弁護団の嶋﨑弁護士は、「労働者が相談に来るきっかけは、長時間労働やそれに伴う心身の疲労、中小企業では退職したいのに辞めさせてくれないといった場合が多い。残業代の請求は、実はこうした苦痛の代償という意味合いが強い」と警鐘を鳴らす。
会社がいくら厳密な労働時間管理やそれに基づく残業代支払いに努めても、未払いを「ゼロ」にするのは難しい。そのため、労働時間の短縮や従業員の健康への配慮も、未払い賃金請求のトラブルを避けるリスクマネジメントになる。
一方、法外な請求をしてくる“ブラック社員”に対しては、経営者が先頭に立って毅然として対処すべきだ。団体交渉の申し入れや弁護士からの内容証明に臆せず、早急に顧問の社労士や弁護士に相談して法に基づいた対応策を練るようにしたい。
日経トップリーダー/井上俊明
※掲載している情報は、記事執筆時点(2016年1月)のものです