中堅・中小企業でも、積極的に社員の健康維持・増進に取り組む会社が出てきた。社員の健康が、サービスや技術力の向上、安全確保などに不可欠と考えてのことだ。先行する企業の経営者に取材し、健康経営の「戦略と戦術」をまとめた。
岩手県と青森県でホームセンターなどを経営する菅文(岩手県二戸市)は、今年3月、日本政策投資銀行の「DBJ健康経営格付」を取得し、有利な条件で融資を受けた。この格付けは、従業員への健康配慮の取り組みが優れた企業に付与され、評価結果に応じて融資条件が優遇される。75件の融資実績のうち、非上場企業は30社ほどしかない。
同社は、従業員数300人弱。2014、15年度はパートを含め、全員が定期健康診断を受診した。さらに健診で精密検査が必要とされた従業員のうち、8割以上が受診している(14年度のデータ、治療中の従業員を除く)
高い受診率の背景にあるのは、徹底した受診勧奨と情報提供だ。経営サポート部が要精密検査者を把握してその上司にメールで報告、受診を勧めてもらい結果を報告させる。加えて、同部が該当者に個別に電話して受診したかどうかを確認。一方で受診の便宜を図るため、「血圧が高ければ循環器科へ」「胸部エックス線の異常は呼吸器科」など、検査項目に応じた診療科を紹介する。
「会社には従業員の面倒を見る責任がある。そして健康でなければいい仕事はできない」と菅陽悦社長は、健康経営に力を入れる理由を話す。
菅文が従業員の健康づくりに留意し始めたのは、約10年前、30代の従業員が就寝中に突然死したり、40代の従業員が糖尿病で人工透析が必要になったりしたことがあったからだ。いずれも、健康診断を受けていない従業員だった。
そこで08年から、部署・項目別に検査データを集計し、要精密検査者数の推移や疾患の動向などを把握(グラフ1)。これを健康づくり対策の資料にしている。具体的には、脂質、血圧、肝機能で異常を指摘される従業員が多い傾向が見られた。そこで食事や運動面に気を付けるよう、該当する従業員に向けて指示を出した。
実は菅文が健康経営格付を取得した目的は、低利融資ではなく、これまでの自社の取り組みの確認だった。取得後は求人票に書いたり、就職説明会で話したりするなど、健康経営を会社のイメージアップに使い、人材募集に役立てようとしている。
「これまで独自の魅力を学生にアピールするのが容易ではなかった」(菅社長)という実情があり、健康経営がその手段の1つとなることを期待している。
手製のポスターで啓蒙
「建設会社は毎日作るものが違う。技術力が問われるし、社員のプレッシャーも大きい。それだけに良好な健康状態で仕事をしてもらう必要があり、健康診断受診の励行もその一環だ」。やまこう建設(鳥取市)の岸本行正社長は、社員の健康づくりに力を入れる理由をこう説明する。
同社は社員70人ほどの地場の建設会社で、健康診断や精密検査の受診励行、社員への啓蒙や情報提供、さらには労働時間の短縮などに力を入れている。昨年、全国第1号で厚生労働省の「安全衛生優良企業」の認定を受けたほか、全国健康保険協会(協会けんぽ)鳥取支部と鳥取県から、健康づくりメニューを積極的に実施している事業所として、県知事表彰された。
表彰理由の1つに、協会けんぽが開催する健康づくりなどに関する講習会への積極的な参加がある。最近は、睡眠不足解消を図るメンタルヘルス関係の研修などで学んでいるという。その成果は、社内で講習会を開くなどして社員全員に伝えている。
啓蒙の一環として、社内各所にカラフルなポスターを張り出し、健康情報の提供に努めている。「やまこうGENKI顔春(がんばる)通信!」と題したこのポスターを、15年度は4回にわたって手作りで作成。最新版では、「お酒と上手に付き合おう!」をテーマに、酒の長所と害、適切な酒量などについての情報を掲載している。併せて、安全衛生上の注意点を指摘する新聞も作成し、社内に張り出している。
会社負担でがん検診
やまこう建設では、健康診断の受診率の高さ、特に再検査とされた社員の受診率100%(15年度)が注目に値する。対象者全員に受診を促す文書を配布するなど、総務部が受診勧奨に力を入れている成果だ。
定期健康診断ではカバーできない各種がん検診も、協会けんぽの生活習慣病健診のオプションとして、受診できる。女性は毎年乳がん・子宮がん検診を、男性は前立腺がんなどを調べる腫瘍マーカーの検査を、会社の負担で受けられるようにしているのだ。岸本社長は、「社員にとっては安心感が違う」とその効果を話す。
そのほか、やまこう建設には経営幹部らで組織する「働き方、休み方のチーム」がある。天候の影響を受けやすい建設業という業種のため、週休2日制をとっていても、土曜日はなかなか休めないという現実があるからだ。そこでこのチームで作業を検証し、効率化による労働時間削減を図っている。
死の10日前まで就労
昨年、藤沢タクシー(神奈川県藤沢市)に勤める乗務員の1人が大腸がんで亡くなった。既に転移のある状態で見つかって2年半、手術や抗がん剤治療を受けながら「くたばってたまるか」という強い意思を持って働き続け、亡くなる10日前までハンドルを握っていた。
それを可能にしたのが、がんの社員に対する同社の手厚い就労支援。具体的には、通常16時間勤務のところを日勤だけにする、通院日は勤務を休めるように配慮する、抗がん剤の副作用を気にせず済むように帽子や手袋を身に付けることを認める、などだ。
「高齢の社員が多い中堅・中小企業にとって、仕事とがん治療との両立を目指す社員への支援は避けて通れない課題。平均年齢58歳の当社では、がん闘病中の社員が常時3人ぐらいいる」と、藤沢タクシーの根岸茂登美社長は話す。
実は、大腸がんになった社員はほかにもいた。病気の人が出ると、周囲の人の健康に対する意識は、いやが上にも高まるもの。そこで根岸社長は、この機にがん検診の受診率を引き上げようと、社員の前で大腸がんについての話をした。
加えて、40歳以上で希望する社員を対象に、会社負担で検便検査を導入。「異常が発見された社員がいたら、面談して内視鏡による検査へ誘導しようと思っている」と根岸社長は話す。
一足先にストレス検査
藤沢タクシーは社員数100人に満たない中小企業。16年前、保健師として産業保健に携わっていた根岸氏が父の後を継いで社長に就任した頃は、“メタボ”の社員が大勢いた上、毎年平均年齢が1歳ずつ高齢化していた。
「ドライバーの健康をきちんと管理しないと、安全面で大変なことになる」と思った根岸社長だったが、健康に対する社員の意識は低く、どこから手を付けるべきか悩んだ。
そこで根岸社長は、ざっくばらんに社員の話を聞くことから始めた。「昨日飲み過ぎたんじゃない?」「普段どんな物を食べているの?」……。社員の健診結果を頭に置きつつこうした会話を積み重ねることで、運動不足や肝機能異常など、社員の健康上の問題が明らかになってきたという。
例えば肝機能異常は、夜勤明けで帰宅後、眠るために寝酒をする社員が多いことが要因だと考えられた。タクシー会社特有の健康課題というわけだ。運動不足解消にウオーキング会を計画するなど、対策も実行してきた。
なお藤沢タクシーでは、昨年12月から従業員50人以上の企業に義務付けられたストレスチェックと同種のテストを、既に実施している。ストレスの高い社員には根岸社長が声をかけて面談し、勤務シフト変更や労働時間短縮などの対応をとっているという。
始める好機が到来
昨年5月、政府の次世代ヘルスケア産業協議会が、中小企業の健康経営促進を打ち出した「アクションプラン2015」を公表、その施策の多くが「日本再興戦略2015」に盛り込まれた。それ以来、「次は中堅・中小企業の健康経営だ」というムードが盛り上がってきている。
今年に入ると、アクションプランの内容が続々と実行に。3月には中小企業などの健康経営の好事例をまとめた「健康経営ハンドブック」が発行され、5月末からは中小企業に健康経営の普及・啓発を図る「健康経営アドバイザー」の養成研修も東京都で始まった。
健康経営の優良企業に対する認定制度も創設に向けた準備が進んでおり、意識の高い中小企業にとって、健康経営に取り組む新たなインセンティブになるだろう。健康経営に詳しい京都工場保健会の森口次郎氏が囲み記事で指摘しているように、ストレスチェックの義務付けも、中堅・中小企業が重い腰を上げるよいきっかけなるはずだ。
健康経営の必要性・重要性は、既に中堅・中小企業でも広く認識されつつある。取り組みを支援する制度や実行へのインセンティブなどが登場し始めた今こそ、健康経営をスタートするのにいい時期ではないだろうか。
日経トップリーダー/井上俊明
※掲載している情報は、記事執筆時点(2016年6月)のものです
専門家が教える勘所
ストレスチェックを入り口に
中小企業経営者も、従業員の健康問題を経営上のリスクと捉えている人は増えている。ただ、経営者自身が健康を害するのはそれ以上のリスク。社長自らがメンタルヘルスなどについて学び、成果を従業員に還元するというのが、効果的な取り組み方ではないか。
精密検査や治療が必要な従業員をきちんと受診させるなど、健康診断の積極的な活用は健康経営の第一歩だ。ただがんは、労働安全衛生法上の健診の対象外。検便など医学的に有効性が認められている検査を、会社が独自に組み入れる必要がある。
ストレスチェックは、テストの外注費や高ストレス者と医師との面接費用など、中小企業にとって金銭的負担は大きいが、健康づくりに取り組むよいきっかけだ。ただし、面接にとどまらず、上司による部下のケアや職場環境改善など、包括的なメンタルヘルス対策につなげるべきだ。まずは、データを厳密に管理して安心して受検できる体制を整え、受検者を増やし、かつ正直に答えてくれるようにしたい。
中小企業では地域の開業医が嘱託として産業医になるのが一般的なため、健診で異常が見つかった人を治療につなげやすい。地域産業保健センターのように、小規模企業が無償で使える公的機関もある。経営者の考え方1つで進めやすいという中小企業の利点を生かし、健康経営に取り組みたい。(談)