イズミ会長 山西義政氏
大型ショッピングセンター「ゆめタウン」を展開するなど一大流通チェーンとして存在感を示す。時代や環境の変化を見極め、お客の要望に応えながら中国、四国、九州で地域一番店をつくり上げた。国内市場は逆風も吹くが、山西義政会長は「この商売はまだ深掘りできる」と2020年に売上高1兆円達成をめざす。
──山西会長は中国、四国、九州でショッピングセンター「ゆめタウン」など102店舗を展開する一大流通チェーンを築き上げました。どんな経営方針で事業を営んできましたか。
山西:お客様に一番愛される「地域一番店」をめざし、一番いい場所に一番大きい店をつくることに力を注いできました。代表例が広島市に開いた1号店の八丁堀店。当初は2階建てでしたが5回増築し、最終的には地下1階、地上7階の大型店に進化させました。普通は1号店が成功したらチェーン化に走るところですが、お客様の要望に応え、建物を大きくすることで地域一番店に挑んだのです。現在、年間100億円以上稼ぐ店が15~16店舗あります。昔はうちが大手企業に勉強に行かせてもらっていましたが、今は逆に、大手の方が店の見学に来られます。
撤退する勇気を持つ
──当初は繁華街で商売し、やがて駅前、さらには郊外へと出店するようになり、形態もスーパーマーケットからGMS(総合スーパーマーケット)へと転換していきました。時代の変化をどのようにとらえて変革してきたのですか。
山西:オープン当初は地域一番店だった店でも、後から他の大型店が出店すれば2番店、3番店になります。商売の基本は一番いい場所に出すことですが、そのいい場所は時代とともに変わっていきます。当社はそういう時代の変化、環境の変化に合わなくなった店をどんどん閉鎖・売却しました。これまでに30店舗は廃店したでしょう。そして、その時々にお客様が集まる店舗を新たに出店してきました。
イズミの店舗の平均年齢を出したら、GMSの中では一番若いと思いますよ。人間と同じで、稼いでくれるのは働き盛りの店(笑)。
──設立2年目の1963年、大阪に大型スーパーを開店しますが、わずか半年で撤退していますね。
山西:今思えば、大阪出店は無謀でした。衣料卸からスーパー事業に乗り出したばかりで、まだ広島市内に2店舗しかないときに3店目を大阪に出してしまった。出してみて、戦線を拡張し過ぎたと気づき、撤退を決めました。
店を閉めるときには、地元で採用した人には辞めてもらうなど不名誉な後始末をたくさんしなくてはなりません。「ようやらん」という人も多いけれど、大事なのはそれをぱっとやることですよ。出て行く勇気以上に撤退する勇気を持つことです。
大阪での経験から、私はとにかく目の前の地域を一つひとつ固めることに専念するようになりました。広島を中心に瀬戸内海地域で一番をめざし、それができたら中国地方の一番をめざし、九州へ進出し……。こうして一歩一歩進んで今に至りました。
感謝の気持ちが働きに転化する…
──店舗網拡大のため積極的にM&A(合併・買収)も進めました。どのように従業員をまとめましたか。
山西:買収するのは、業績が悪い企業。だから、例えば従業員はボーナスを受け取っていないことが多いんです。我々は買収直後から、正月と盆に2カ月分のボーナスを出すようにします。その次には、とにかく店の中身を良くして業績を伸ばし、2.5カ月分のボーナスを出すという具合に少しずつ増やす。2003年に買収したニコニコ堂(熊本市)は今、4カ月分のボーナスを出しています。
こうやって還元すると、従業員は感謝の気持ちを働きに転化します。するとお客様が喜んで来てくれる。お客様の喜びは売り上げに反映します。業績が向上すれば株価が上がる。好循環ですよ。
といっても、打算的にやっているわけではありません。「人を喜ばせたら、その喜びは自分に返る」というのが私の人生観なのです。喜んでもらいたいから、個人的に従業員に対し誕生日祝いを贈ることも習慣にしています。日持ちのする菓子が多いですね。子会社を含めて対象は2万人ほど。買収した場合は、契約を調印した月から渡します。それで業績につながるかどうかは分からないけど、喜んでくれるのは確かですよ。
──そうした人生観はいつ養ったものですか。
山西:70年前です。海軍の潜水艦「伊400型」の乗組員として終戦を迎え、原爆投下で焼け野原になっていた広島に帰りました。どうやって生きていこうかと考えたとき、干し柿を作っている潜水艦の仲間がいることを思い出し、それを買ってヤミ市の露店で売りました。
お金がなくて地下足袋や花嫁衣装を手に「干し柿と交換して」という人も来ました。交換すると涙を流して喜んでくれてね。相手に喜んでもらえればこちらもうれしい。そういう体験が今の商売を営む原点になっています。
まだまだ深掘りできる
──高齢化、人口減少など国内市場は暗い話題が多い。インターネット通販の普及も、店舗を構える小売業にとっては逆風です。それでも成長のチャンスがあると考えますか。
山西:お客様が憩い、楽しめる場を我々がどれだけ提供できるかだと思います。インターネット通販が好きな人もいるでしょうけれど、家族や友達と店に行きたい人もいますから。私は今も週2回、お客様の立場で各店を見て回り、楽しい雰囲気の店か、クルマに乗って出向く価値のある店かとチェックしています。
反省しなくてはいけない面もあります。実は我々が2015年6月、広島県廿日市市にオープンしたゆめタウンは飲食部門のスペースが少なかった。寿司屋、うなぎ屋、天ぷら屋などレストランを17店舗入れたのですが、お昼にはお客様が外でずらっとお待ちです。それだけまだ店に行き、憩い、楽しもうとする需要があるということです。
国内での成長は望めないと海外に進出する企業もあるけれど、ライバル企業より魅力的なものを提供し地域の占有率を高めようと思えば、まだ足元でできることはたくさんあります。イズミは新しいことをあれこれ追いかけるのではなく、今の商売を深掘りしたい。その上で2020年に1兆円の売上高を達成するのが目標です。
──90歳を超えてなお現役経営者である山西会長から後輩の経営者たちへのアドバイスはありますか。
山西:私は「革新」「挑戦」「スピード」をモットーにやってきました。衣類卸からスーパーに転じたのも、GMSを手掛けたのも挑戦です。失敗もしましたが、挑んでいなければ今のイズミはないでしょう。
経営者はどんどん挑戦することです。失敗を恐れず、やってみて、間違いと分かればすぐに改めればいい。年を取ると保守的になる。若いうちは革新を狙ってむちゃをやるのもいいと思いますよ。
●キラリと光る地域ナンバーワンチェーン
全国的に見れば、イオンとセブン&アイ・ホールディングスの二大グループが激しく競い合う総合スーパー業界において、広島に本社を置くイズミは、営業収益が両社の1割弱の、5797億円(2015年2月期)にとどまります。とはいえ、5期連続の増収、3期連続で過去最高営業利益を更新するなど、キラリと光る好調ぶりです。
第二次世界大戦中に潜水艦に乗っていた山西義政会長が、復員後に焼け野原でヤミ市に露店を開いたのがスタートです。1950年代に知り合いから一等地にある銭湯が売りに出るという話を聞き、すぐに買いに行ったところから事業の歯車は大きく動き始めます。
当時の値段で1500万円。今でいうと2億、3億円という価値になりますが、それをジャンパーに草履姿の若者が即決で買ったので、売り主の方も驚いたそうです。こうした経験から、山西会長はスピードに価値があると気づいたといいます。
その後も60年代は駅前の一等地への出店に注力し、73年からは郊外型にシフトして常に地域ナンバーワンの店づくりを狙ってきました。今年6月末での店舗数は102に上りますが、今でも出店する場所は山西会長が自ら足を運んで決めています。「不思議なもので、いい立地というのは近くを通るとピンとくるもの」と山西会長。
もちろん、いったん立地を決めると、レストランやアミューズメント施設のなど過去の事例から徹底的に研究し、地元の人に喜んでもらえる店づくりに力を注ぎます。山西会長は「イズミには同じ店は1つもない」と胸を張ります。常に過去の事例を基に革新し挑戦していくからでしょう。
日経トップリーダー 構成/小林佳代
※掲載している情報は、記事執筆時点(2015年11月)のものです