菊正宗酒造は瓶詰めの樽酒で圧倒的なシェアを持つ、国内大手の日本酒メーカーである。日本酒離れが叫ばれる中、2018年で創業359年を迎える老舗はどのような戦略で事業展開を考えているのか。17年6月に社長に就任し、同社当主の名跡を引き継いだ第十二代嘉納治郎右衞門氏に話を聞いた。
私どもの日本酒の一番大きな特長は、辛口にこだわったメーカーということですね。戦後には甘口ブームもありましたが、私どもは一貫して辛口にこだわってきました。菊正宗の淡麗辛口の酒質を醸し出すのが、「生酛(きもと)造り」です。酒づくりの原点ともいわれる製法で、アルコールをつくる「酒母(しゅぼ:日本酒の醸造のために蒸米・麹・水を用いて優良な酵母を培養したもの)」を昔ながらの手間暇かけた製法でつくり上げます。市販の乳酸を添加せず、天然の乳酸菌の力を借りて生み出されたたくましい酵母は、雑味の少ないキレのある味わいを出します。
通常の倍以上の時間と手間がかかるため、この製法を行っているメーカーは全国でも数えるほどしかありません。私どもでは江戸時代から続くこの技術を現代でも継承しております。
嘉納:国内出荷量が減っている中、蔵元の若いつくり手が特徴ある日本酒を生み出しています。そうした大吟醸や純米の特定名称酒の日本酒に注目が集まっているのはうれしいことですし、チャンスだと思っています。ただ、こうした日本酒を楽しむお客さまは、非日常的な部分で日本酒を飲まれている傾向があるように思います。晩酌で日常的に日本酒を楽しまれる方はまだまだ少ない。新しいお客さまを非日常の「ハレ」から日常の「ケ」のシーンにいかに誘導していけるかが、非常に重要なテーマだと考えています。日本酒消費量の増加にもつながります。
私が17年に社長に就任したとき、「伝統と革新による新たな価値創造」を新たなビジョンに掲げました。350年を超える長い歴史の中で積み重ねてきた技術、知見を基に、革新的な技術、革新的な発想を生み出し、新しい価値を創造していくという意思を言葉にしたものです。私どもでは日本酒をもっと日常のシーンで楽しんでいただけるよう、革新的な試みを始めています。
――その試みを具体的に教えてください。
嘉納:2016年に発売した「菊正宗 しぼりたてギンパック」がその1つです。これまで、紙パックの日本酒はヘビーユーザーの方が楽しまれるというイメージがあり、若いお客さまに敬遠される傾向がありました。しかし、紙パックは軽く、割れることもなく、冷蔵庫に収まりがいい、とても利便性が高い容器です。こうした容器特性を生かしながら、従来のパック酒とはまったく違う銀色のパッケージデザインを採用し、若いお客さまに手に取っていただきやすい商品として開発したのが「ギンパック」です。
「ギンパック」の味わいは、原料米を磨く割合が低い普通酒でありながら、大吟醸のような芳醇(ほうじゅん)でフルーティーな香りを醸し出すようにしました。若いお客さまが日常のお酒として楽しんでいただけるように、価格も抑えています。
――ライトユーザーへの新しいアプローチですね。他にも日本酒ユーザーを広げるアプローチがあれば聞かせてください。
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左から「百黙」「樽酒」「菊正宗 しぼりたてギンパック」[/caption]
嘉納:和食以外でも日本酒を楽しんでいただける試みもあります。「ギンパック」と同じ16年に130年ぶりに日本酒の新ブランド「百黙(ひゃくもく)」を立ち上げました。この「百黙」は、「菊正宗」とは対極の存在という位置づけのブランドです。「菊正宗」は伝統的な日本料理、繊細な味付けの和食との相性を非常に意識しています。しかし昨今は食文化が多様化しており、家庭でも和食以外のものを食べる機会が多くなっていますし、レストランで海外の料理を気軽に楽しめる環境が増えています。
そうした多様な料理とのマリアージュ(相性の良さ)を提案すべく、私と同世代の社員たちを中心にディスカッションしながら開発したのが「百黙」です。キレのある「菊正宗」とは対極に、上品な甘みのある純米大吟醸につくり上げました。これまでとは対極の日本酒をつくることで相乗効果を生み、既存のブランドの価値も上げられたらと考えています。
――和食以外の組み合わせでいえば、海外でも日本酒ブームが続いています。海外市場をどのように見られていますか。
嘉納:日本酒の国内市場は縮小傾向にありますが、海外への輸出量は年々増えており、この傾向はまだ続くと思っています。なぜなら海外在住の日本人の方々だけでなく、現地の方々にも飲んでいただけるようになってきたからです。
伸びしろを感じるのは、各国の内陸部の地方都市ですね。これまでは米国ならニューヨークやロサンゼルス、中国なら北京、上海といった沿岸部の都市部中心のマーケットでした。それが今は内陸部にもマーケットが拡張しています。特に有力なのが中国。中国は地方都市も人口が多いですから、マーケットの伸びも大きい。私どもも海外市場には非常に力を入れており、特に中国では菊正宗ブランドが浸透しつつあります。「百黙」も今はまだ兵庫県限定で販売していますが、18年度から海外展開に挑戦します。
――日本酒メーカーは老舗が多いことで知られています。菊正宗酒造にも350年を超える歴史があります。長く事業を続けるに当たり、経営面で受け継いできたものはありますか。
嘉納:350年変わらぬ経営ビジョンがあるかというと、そういうわけではありません。ただ、八代目が事業を継いだときに明文化された「家憲七カ条」という家訓があり、それを大切に受け継いでいます。
私がしっかり実践できているかどうか心もとないのですが、第二条にある通り、今も投機的事業はしていませんし、第五条の公共事業という点では公益法人を通じて社会貢献活動をさせていただいています。
私は特に第七条が重要だと考えています。第七条には「雇い人はわが家族と思え」とあります。私どもは家族的風土を大切にしていきたい。社員は皆、人生の中で長い時間を仕事に費やすので、会社の風土がよくなければ続きません。そういう風土を受け継いでいくのが社長である私の重要なテーマです。
家憲七カ条
一つ、父祖の業を専守すべし
二つ、必ず投機的事業は避けよ
三つ、時勢を見抜いて勝機を逃すな
四つ、主人は雇い人とともに働け
五つ、勉めて公共事業に尽くせ
六つ、神仏を信仰する念を忘るな
七つ、雇い人はわが家族と思え
――第一条に「父祖の業を専守すべし」とありますが、伝統を受け継ぐのも難しい状況にあるのではないでしょうか。
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現在は自社で樽工場を持つ。樽には吉野杉を使う[/caption]
嘉納:伝統を受け継ぐ中でも技術の継承が一番大きな課題になっています。酒づくりの指揮を執る職人を杜氏(とうじ)と呼びます。その杜氏が全国的に少なくなっていて、私どもでも季節雇用で来ていただいている杜氏がどんどん減っています。数値化できるところはデータベース化していますが、杜氏の感性による部分も残していきたい。職人さんの感性を受け継ぐべく、社員杜氏の育成を行っています。
私どもの商品の中に、木製の樽に日本酒を貯蔵して木の香りを付けた樽酒があります。当社の主力商品の1つです。ところが、頼りにしていた樽の製造会社が廃業するという話が飛び込んできました。日本酒を入れる樽をつくる職人はすぐには育ちません。現在は、3人の樽職人さんに会社の中に入ってもらい、社員に樽づくりの技術を伝えていただいています。こうした技術は、私どもの事業の生命線ともいえるもの。技術の継承を喫緊の課題として捉えています。
――日本酒以外にも化粧品事業などで多角化を図られていますね。
嘉納:ええ。ただ、七カ条を守るためにも、縁もゆかりもない事業に出ていくつもりはありません。私どものコアは広くいえば発酵です。長年培った発酵技術をコアとして、暮らしに貢献できる事業を展開していきたいと考えています。
今伸びているのは化粧品事業で、保湿効果が期待できる日本酒(コメ発酵液)配合の化粧水が好評をいただいています。化粧品事業は売り上げの1割を超えており、事業の一つの柱になりつつあります。また、最近、乳酸菌がブームになっています。日本酒づくりに乳酸菌は欠かせません。乳酸菌を使った健康食品、健康飲料にも取り組んでいます。こうした分野はさらに拡大していきたいと思っています。
国内市場が縮小傾向にある厳しさはありますが、海外展開を含めて大きな可能性があると考えています。七カ条を大切にしながらも伝統にあぐらをかくことなく、さまざまなチャンレンジを続けていきます。伝統と革新による新しい価値をこれからも提供していきたいと思います。