ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
似ているようで違う、法人向け光回線の選び方
公開日:2017.09.06
実例からドラッカーのマネジメントを学ぶ連載。今回は、クリーニング業界で起死回生を懸けた新規事業が次々に頓挫する中、きっかけを得てビジネスを回復させた共生社の取り組みを紹介します。クリーニングのタグというニッチな分野の技術革新にこだわった同社に起こった奇跡にはどんな秘密があったのでしょうか。
「ゼロ成長を当然のこととしてはならない。ゼロ成長企業の経営にあたっては、『われわれの強みは何か。その強みは、人口、市場、流通、技術の変化によって生ずる機会のどこに適用できるか』を問わなければならない。人的資源の能力を維持し、その生産性を向上させ続ける会社は、必ずや大きな成長の機会に出合う」
(『実践する経営者』39ページ)
<解説>どれほど苦戦している企業でも、過去を振り返れば、今の事業を確立するために必要な知識、能力を苦労して身に付けてきたはずだ。それらが蓄積されると、やがて強みと呼ばれる。しかし日々の活動で当たり前に生かされるうちに、強みであることを忘れる。
強みは実績の中にしかない。しかも多くの分野で強みを持つことはない。それゆえ「真の強みは何か」を、常に問い続けなければならない。真の強みを見つけたとき、イノベーションが可能になる。「イノベーションは強みを基盤としなければならない」(『イノベーションと企業家精神』)と、ドラッカー教授は説いた。加えて「自分たちに最も適した機会」を探せという。
さらに必要なものがある。人的資源の維持、向上だ。アイデア1つで成功することはまれである。社員の献身が生きる持続的な仕事でなければ、イノベーションとして結実することはない。結局、手持ちのものでしか勝負できない。
(ドラッカー学会理事=佐藤 等)
起死回生を懸けた新規事業が次々に頓挫。共生社(兵庫県尼崎市)の槙野雅央社長は、空回りしていた。
共生社の主力事業は、クリーニングタグの製造販売。1970年、槙野社長の父が設立した。クリーニングタグは、クリーニング店が顧客から預かった衣類に取り付ける小さな紙片。例えば下の写真のように、シャツのボタンホールにタグを通し、ホチキスで留めて顧客に返す。タグに番号や記号が印刷され、誰からいつ預かったものかが分かる。
クリーニングタグは、洗濯する前に衣類に付けるので、用紙やインクに耐洗性が求められる。このような特殊な資材の調達ルートを確保するのが難しく、業界の参入障壁となってきた。
槙野社長の父親は、独立前の勤務先で培ったネットワークで、このカベを突破。共生社は、競合4社の最後発ながら、唯一の専業メーカーとしてスタートした。創業から約20年、90年代初頭まで、右肩上がりの成長が続いた。クリーニング市場の拡大に、タグの供給が追い付かず、作れば作るだけ売れた。そんな最中の84年、槙野社長は24歳で入社した。
しかし、クリーニング市場は92年をピークに縮小に転じる。ここから槙野社長の奮闘が始まった。94年、タグの輸出を営業部長として指揮。国内ではクリーニング店向けのPOSシステムを販売するなどして、顧客1社当たりの売り上げを増やした。
しかし、市場縮小は止まらない。オフィスファッションのカジュアル化や形態記憶シャツの普及など、クリーニング需要を減退させる要因がいくつも浮上。90年代後半から、共生社の売り上げはジリジリと減り始めた。
何か手を打たなければ――。
99年、社長就任。その4年後、賭けに出た。クリーニング店の接客を省人化するシステムを機械メーカーと共同開発した。店内にコンベヤーを設置し、顧客が機械にカードを通すと、クリーニングを終えた衣類が自動的に出てくる。しかし、試験導入したチェーンでは「スペースを取るだけ」と不評で、本格導入には至らなかった。
それでも挑戦を続けた。06年、クリーニング店が、顧客との衣類の受け渡しに使う専用ロッカーを発売。10年には、洗濯する衣類の識別にICチップを使うシステムを開発、発売した。しかし、いずれもコスト高などが嫌気され、ほとんど売れなかった。
これらの新規事業への投資額は、約1億円に上った。しかし、すべて成果を上げることなく終わり、共生社はじり貧に陥った。一筋の光明が見えたのは、13年。知人の紹介でドラッカーの勉強会に参加したのがきっかけだ。
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佐藤 等(佐藤等公認会計士事務所)
佐藤等公認会計士事務所所長、公認会計士・税理士、ドラッカー学会理事。1961年函館生まれ。主催するナレッジプラザの研究会としてドラッカーの「読書会」を北海道と東京で開催中。著作に『実践するドラッカー[事業編]』(ダイヤモンド社)をはじめとする実践するドラッカーシリーズがある。
【T】
実例で学ぶ!ドラッカーで苦境を跳ね返せ