1990年代、ビール業界で激しいシェア争いが繰り広げられた。長年トップシェアを誇ったキリンビールに、「スーパードライ」をヒットさせたアサヒビールが猛攻。2001年、王座を奪った。劣勢にあったキリンビールの反転攻勢に活躍したのが田村潤氏だ。
07年、副社長兼営業本部長に就任し、2年後、トップ奪還を果たす。そんな田村氏は「戦い方はすべて高知支店で学んだ」と語る。その経緯は著書「キリンビール高知支店の奇跡」(講談社)に詳しい。だが、田村氏が長年ドラッカーの言葉に親しんできたことを知る人は少なく、著書にも記載がない。
高知ではもともと「キリンラガービール」の人気が高かった。その分、スーパードライ人気を受けた落ち込みも激しく、高知支店は県内トップシェアを守りながらも、「ダメ支店」と目されていた。出勤初日、営業9人、内勤2人のメンバーを前に、田村氏は少し拍子抜けした。雰囲気が暗くない。本部の指示を淡々とこなし、数字が悪いことについては「仕方ない」「自分のせいではない」というスタンス。危機感がなかった。
一方、本社には危機感はあっても迷走しているように思えた。創立以来の理念として「お客様本位・品質本位」を掲げていたが、長年、業界の王者の座にあったのが裏目に出て、現場が軽視されていた。「お客様を見ずに『お客様本位とは何か』を議論するから、空回りしていた」と、田村氏は話す。
当時を振り返って、痛感するドラッカーの言葉がある。「明確かつ焦点の定まった共通の使命だけが、組織を一体とし、成果をあげさせる」。(「ポスト資本主義社会」)
「理念という組織の軸が揺らぐと、転んだときに立ち上がる支えを失ってしまう」(田村氏)
ポイント2■知識労働者
田村氏はその後、高知支店の立て直しに尽力します。一度は、県内トップシェアをアサヒビールに奪われながらも、5年がかりでその座を奪還します。しかし、その間、田村氏が追い求めた本質は、シェアではなく、部下の働き方を変えること。ドラッカー教授のいう「知識労働者」を育てることでした。
96年1月、高知支店のメンバーは1泊2日の研修合宿に臨んだ。研修内容に期待していたわけではない。ただメンバーの意識を変えるきっかけが欲しかった。
シェアが落ちても「本社が悪い」と愚痴るばかり。本社の指示に従うのが仕事だと思っている。まさにドラッカー教授のいう「マニュアル・ワーカー」で、自分の努力と工夫で勝つことを考えない。だから、指示の実行もどこか中途半端。そんなメンバーを、自発的に考え、行動する「ナレッジ・ワーカー(知識労働者)」に変えたかった。
――「知識労働者は自らをマネジメントしなければならない。自らの仕事を業績や貢献に結びつけるべく、すなわち成果を上げるべく自らをマネジメントしなければならない」。(「経営者の条件」)
研修は日曜日の朝に始まったが、メンバーのテンションは低かった。そこにトレーナーが「この支店の弱点は何か」を、個人名も挙げて議論させたので、ギクシャクした雰囲気が漂い始めた。
しかし、そんな険悪なムードの中で、メンバーから初めて自分の頭で考えた意見が出た。「酒販店を回るより、料飲店を攻めたほうがいいのではないか」
ポイント3■経営資源の集中
研修で出た意見を受けて、田村氏は営業戦略上、大きな決断を下します。詳細は後段に譲りますが、ポイントは、ドラッカー教授も繰り返し強調する「集中」です。
料飲店の営業強化という案がメンバーから出たのはなぜか。実のところ、マーケットは酒販店のほうが大きく、居酒屋など料飲店で飲まれるビールは全体の25%にすぎない。しかし、酒販店に営業をかけても、最終的に購買を決めるのは消費者だ。逆に料飲店なら、店長などといい関係を築ければ、すぐ売り上げに跳ね返る。
田村氏は決断した。「料飲店のマーケットに集中して営業をかける」。あえて大きな市場を捨てる賭け。四国の地区本部から怒られるのを覚悟した。
――「重要なことは、いかに適切に仕事を行うかではなく、いかになすべき仕事を見つけ、いかに資源と活動を集中するかである」。(「創造する経営者」)
こうしてドラッカー流の集中戦略に大きくかじを切った。
本連載を監修する佐藤等氏。
札幌市で公認会計士事務所を経営する傍ら、2003年からドラッカーの読書会を開始。14年間で700回以上開催した。ドラッカー学会理事
日経トップリーダー 文/尾越まり恵
※ ドラッカーの著作からの引用は、ダイヤモンド社刊行の書籍に準拠しています