ここまで見てきたように、交渉において返報性の原理を利用することの本質は「譲るものをつくり、それを基に相手の譲歩を引き出す」ということです。従って、「譲るもの」をうまくつくることさえできれば、交渉をがぜん有利に進められます。
このことを利用した交渉のテクニックがあります。「ドア・イン・ザ・フェイス」あるいは「大阪商人方式」などと呼ばれるテクニックです。まず相手が明らかに断ると思われる条件で申し出をして、相手が断った後に譲歩をし、自分が本当の落としどころだと考えている条件で申し出をすることにより、交渉を有利に進めようというテクニックです。
具体的な例で考えてみましょう。借り主と大家さんとの間で賃貸住宅の家賃交渉をするシーンを考えてみます(図1)。大家さんとの交渉の際、借り主は「月額10万円が精いっぱいだな」と考えているとします。ところが、大家さんは「20万円」と切り出しました。これを聞いた借り主は、「とてもそんな金額は払えない」と当然突っぱねます。
すると、次に大家さんは「では15万円ではどうか」と5万円下げた金額を提示しました。しかし、まだ予算よりは5万円も高いので、借り主はこれも拒否します。大家さんはしばし沈黙の後、「13万円なら…」とさらに譲歩した条件を提示してきました。これを聞いた借り主は「そこまで譲ってもらえるなら」と承諾しました。結果的に、借り主は当初予算である10万円を上回る13万円を払うことになりました。ところが、実はこの13万円という金額は、最初から大家さんが狙っていた金額だった――。こういう話です。
最初に相手が明らかに断る不利な条件を提示して、次にそれよりは相手にとって有利な、しかし実は自分が本当に欲しいと思っている条件をそっと差し出すことで相手の譲歩を引き出す。この方法は、返報性の原理にさらに「要求のコントラスト」という性質が加わるため、より強力に人の心理に働きかけます。
要求のコントラストとは、同じ要求であっても、先により大きな要求を見た後では比較的に小さく見えるという性質のことです。上記例でいえば、13万円という大家さんの要求は、10万円という当初の予算に比べれば大きなものですが、20万円という最初の要求と比較すると相当に小さく見えます。
プロジェクトの交渉現場に当てはめてみる…
「ドア・イン・ザ・フェイス」テクニックをプロジェクトの交渉現場に適用するとどうなるかを仮想のシナリオで見てみましょう(図2)。あなたはシステム部門のプロジェクトマネジャーであり、ユーザー部門からの厳しいスケジュール要求に対して、なんとかしてプロジェクト期間に余裕(バッファー)を追加で確保したいと思っているとします。できれば、あと1カ月は欲しいところです。このとき、正面から「このスケジュールでは無理です。延ばしてください」と交渉しても、うまくいかないことのほうが多いでしょう。そこで、ここまで見てきた「返報性の原理」と「ドア・イン・ザ・フェイス」の2つを組み合わせて使います。
ドア・イン・ザ・フェイスは、相手が明らかに断る申し出をするところから始めるのがミソです。そこで、あなたは「スケジュールを延ばす」ことよりも、ユーザー部門にとってはインパクトが大きい「仕様をドロップする」(機能削減、スコープ縮小)申し出をします。「申し訳ありません。この予算と期間では、ご要望いただいている機能をすべて搭載することは難しい状況です。D機能とE機能の搭載は見送らせていただけないでしょうか」という具合です。
ユーザー部門からすると、機能を2つもドロップされると、システムを導入する意味やメリットが薄れてしまうため、とても承諾することはできません。「予算と納期が厳しいことは分かっている。しかし、そこをなんとかやってもらえないか」という話の展開になるでしょう。
そこでシステム開発リーダーであるあなたはこう切り出します。「私としても、なんとかやれればとは思っています。しかし、この予算と納期ではお約束が難しいのです。例えば、納期を少し延ばしていただくわけにはいきませんか? 3カ月延ばしていただければ、間に合わせられます」。
しかし、ユーザー部門もカットオーバー時期を3カ月も後ろにずらすことは難しく、代わりの案として「ギリギリ1カ月のスケジュール延長で、なんとかならないだろうか。人が足りないなら1名分なら予算を引っ張ってくるから」という提案が出ました。
結果としてあなたは、「1カ月の納期の余裕」と「1名分の追加の予算」を交渉で獲得することに成功しました。最初に「仕様のドロップ」というハードルの高い申し出をあえてして、相手に断られることで、こちらには「譲るもの」が生まれます。ここで返報性の原理により、相手は「お返しをしないといけない」という負担を感じます。また、「仕様のドロップよりはスケジュールの延期のほうがマシ」「3カ月の延期は厳しいが、1カ月ならなんとかなる」という「要求のコントラスト」効果が働きました。その結果、さらに「お返し」として「1名分の予算」を付けてくれたわけです。
相手を操作しようとするのは禁物
ここまで見てきたように、返報性の原理は交渉場面において人の心理に強力に働きかけます。注意しなければならないのは、「相手を操作しようとしてはいけない」ということです。返報性の原理は強力なため、ともすればこれを使って相手を操作しようとしてしまいます。しかし、そうしたスタンスでは一時的にうまくいったとしても、プロジェクトという長い期間を通じて交渉相手との信頼関係を築くことはできません。信頼関係のないプロジェクトを成功させるのがいかに難しいかは、あらためて言うまでもないでしょう。
システム開発リーダーの役割は「プロジェクトを成功に導くこと」です。プロジェクトがより成功しやすい状況や環境をつくり出すために、交渉という手段を用いるだけなのだということを常に意識して、交渉に臨むようにしてください。
まとめ
●「交渉力」の有無がプロジェクトを成功に導けるかどうかを分ける。
●交渉のゴールは「ありがとう」を引き出すことであり、相手を打ち負かすことではない。そもそも勝ち負けがあってはならない。
●返報性の原理をうまく利用する。相手に非があるときは先に譲るとよい。
日経SYSTEMS/芝本秀徳(プロセスデザインエージェント)