プロ野球のトレード事例から、中途採用を成功させるポイントを学ぶシリーズ。今回は、すでに申し分のない実績や経歴を有する人材を中途採用するにあたり注目すべき点を、超一流選手だった松永浩美氏、小林繁氏の2例から紹介する。
中小企業が飛躍を期して、実績のある経験者を採用するケースがある。しかしそれまで勤務していた企業と新たに入社した企業では、ビジネスのやり方や求められるスキルが異なることなどから、うまく実力を発揮できずに早期に退職してしまうケースも少なくない。
プロ野球界においてもビジネスの世界と同様に、これまでの実績を買われ他球団から移籍してきたにもかかわらず、新天地で結果を残せずに、早々に退団してしまうことがある。その典型的な事例の1つが、1992年のシーズンオフに行われた、オリックス・ブルーウェーブ(現・オリックス・バファローズ)松永浩美氏と、阪神タイガース・野田浩司選手の交換トレードだ。
当時の松永氏は、パ・リーグを代表する名バッターだった。1981年、オリックスの前身である阪急ブレーブスで一軍デビューを果たすと、1983年以降は、10年連続で2割8分以上の高打率を残した。1991年には首位打者こそ逃したものの、トップの高沢秀昭選手(ロッテオリオンズ所属、現・千葉ロッテマリーンズ)にわずか4毛差で2位につくデットヒートを繰り広げた。また、右利き、左利きのどちらでも高い打率を残したことから、“史上最高のスイッチヒッター”とも称されるほどであった。
阪神ファンの期待が高まる中、松永氏は開幕戦で5打数5安打と最高のスタートを切った。しかし、2戦目に左足太ももを痛めてしまうと、6月には右肩を痛めて登録抹消。その後も大きな活躍をすることなく、不本意なシーズンの終わりを迎えた。チームも前年の2位から2つ順位を落とした4位で終わった。
一方で、阪神を去った野田選手はオリックスで大活躍。チーム最多勝となる17勝を記録し、阪神に在席した5年間で最高11勝だった自身の成績を大きく更新した。野田選手は続く2年目、3年目にも10勝以上の成績を上げ、阪神にとっては、まさに大失敗のトレードとなった。
それでは実績のあるベテラン選手のトレードを成功させるポイントはどこにあるのか。その答えを、宿敵・巨人から阪神に移籍した小林繁氏のトレードを例に見ることができる。
まずは、小林氏が悲劇のヒーローと呼ばれるようになった原因でもある、江川卓選手との前代未聞のトレードについて紹介しよう。
現在は野球解説者としてテレビで活躍する江川卓選手。アマチュア時代から高校野球、東京六大学野球で大活躍し、“怪物”と呼ばれるほどの人気選手だった。
1977年のドラフト会議は、当時法政大学4年生だった江川選手をどの球団が獲得するか注目が集まった。江川選手は在京球団、特に巨人を希望していたものの、指名したのは一番くじを引いていた福岡を拠点とするクラウンライター(現・埼玉西武ライオンズ)。江川選手はこの指名を拒否、1978年シーズンはどこの球団にも所属せず、アメリカで1年間浪人生活を送った。そして同年の秋、再びドラフト会議の季節がやってくる。
しかし、会議の前日に突然、「巨人が江川と入団契約した」とメディアが報じた。当時の野球協約では、選手との交渉権は翌年のドラフト会議の「前々日」までと定めており、ドラフト「前日」は、どの球団にも交渉権が存在しない“空白の1日”となっていた。巨人がその規約上の盲点をつき、電撃入団発表を行ったのだ。
この“空白の1日”事件に、球界は揺れに揺れた。セ・リーグ事務局が江川選手の選手登録を却下すると、巨人はドラフト会議の出席をボイコット。そしてドラフト会議では4球団が江川選手を1位指名し、阪神がくじを引き当てるも、巨人はこのドラフト会議が無効であると主張した。
この異例の事態を収拾するために、巨人と阪神の間で調整が図られた。結果、江川選手はいったん阪神に入団し、トレードで巨人に移籍することに。そのトレードの相手として白羽の矢が立ったのが、1976年、1977年シーズンで2年連続18勝の最優秀投手に輝き、沢村賞、ベストナインという、巨人のエースとして華々しい経歴を持っていた小林氏だった。
同情はいらない。仕事を見てほしい
最多勝、沢村賞投手であるベテランの小林氏が、怪物とはいえルーキーの江川選手とトレード。これによりいつしか悲劇のヒーローと呼ばれるようになっていた小林氏だが、「行ってからの仕事で判断していただきたい。同情は買いたくない」と語った。記者会見では言葉にしなかったが、小林氏の中には“絶対に巨人を見返してやる”という意地がみなぎっていたのだ。
そして移籍初年度、小林氏は巨人時代の成績をさらに上回る22勝を上げ、最多勝、沢村賞、最優秀投手、ベストナインに輝いた。特に巨人戦では、破竹の8連勝を上げた。自身の言葉通り、仕事で見返したのであった。
この移籍に燃えたのは、小林氏だけではなかった。小林氏は移籍当初、加入したばかりの立場でありながら、チームメンバーへの第一声で、次の発言をしている。
「巨人には伝統はあるけれども阪神には伝統がない」
巨人と阪神の試合は“伝統の一戦”といわれるように、最大のライバル関係である。一方のチームのエースや4番がチームメートになることなど、後にも先にも小林氏ただ一人である。
しかし、ライバル関係にあるとはいえ、当時の実力の差は大きかった。巨人は1965年から1973年まで、日本シリーズを9年連続で優勝する「V9」を達成。また1976年、1977年にもリーグ優勝を果たしている。一方の阪神は、1964年以降、リーグ優勝から遠ざかったまま。しかもトレード前の1978年シーズンは球団史上初の最下位に沈んでいる。
小林氏はこのライバル関係を「伝統がない」と表現することで、「強い巨人をやっつけるチームをつくろう」と呼びかけたかったのだ。
この言葉が、“ミスター・タイガース”掛布雅之選手に火をつけた。
第2回で取り上げた田淵幸一選手の移籍(78年オフ)に伴い、ミスター・タイガースの重責は、タイガースの生え抜き選手である掛布選手が受け継いだ。掛布選手は小林氏のこの発言に「正直、殴りかかってやろうかなと思った」というほど怒りが込み上げたという。
しかし一方で、「絶対に、この人(小林氏)には負けられない。生え抜きとして、この人に負けるような野球をやったら、田淵さんとか、歴代の阪神の先輩方に、笑われてしまう」と、怒りをモチベーションへと変えていた。
闘志に火がついた掛布選手は、その年、当時の球団新記録となる48本の本塁打を放ち、自身初の本塁打王に輝いた。掛布選手は後に、このホームランは「小林繁というピッチャーに対する意識が打たせた48本」だと語っている。そしてチームも4位に終わったものの、勝率は5割を超えた。
小林が阪神に残したもの。中途採用に必要なもの
たった1年でチームを退団した松永氏になく、阪神で移籍前以上の成績を残した小林氏にあったもの。それは、「そのチームで必ず勝つ」という執念ではないだろうか。しかもそれを実行するために、大事なこと、考えていることをメンバーにはっきり伝えるという、同僚への働きかけも行っている。
これは一般的な企業の中途採用にも、そのまま当てはめることができる。
たとえ過去にビジネスマンとして成功体験があった人物だとしても、異なる中小企業というフィールドに転職した場合、よほどの動機がなければ、力がうまく発揮できない可能性が高い。もちろん、他の社員にいい影響を与えるには至らないだろう。
しかし、小林氏のように具体的な志を持つ者であれば、そのような障害など関係なく、「望まれていくことに誇りを感じて」転職する。その誇りを形にするために、仕事で結果を示そうと努力する。そのとき、周りの社員にも熱量が伝わり、会社に多大な貢献をもたらしてくれるのだ。
ベテラン人材を採用する本当の意味は、その人自身が直接成し遂げる成果だけではなく、社員を含めた会社全体への貢献をしてくれるかどうかではないか。中小企業が実績のある人材の中途採用を成功させるためには、うわべの実績だけではなく、新天地で何を成し遂げようとしているのか、その内に秘めた闘志を見なければならない。