「ミスター○○」といえば、多くの人がミスター・ジャイアンツ、ミスター・プロ野球こと、長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督のことを思い起こすのではないだろうか。しかし、そのミスター・ジャイアンツ長嶋氏よりも前に、ミスターの称号を手にした男がいる。初代ミスター・タイガースこと藤村富美男氏(現・阪神タイガース)である。
本コラムの第1回は、長嶋氏の憧れの存在でもあった、藤村富美男氏を取り上げる。彼は、チーム内だけでなく球界から一目置かれた存在として活躍した人物だ。人を惹きつけ“ミスター”と称賛される人物になるための条件とは一体何なのだろうか?
藤村選手は1936年から1958年の間、阪神タイガース(入団当時は大阪タイガース)で活躍したプロ野球選手である。20年以上も同じチームでプロ生活を続けられただけでも十分すごいが、成績もミスター・タイガースの名に恥じないものである。首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回、シーズンMVP1回、通算打率はジャスト3割だ。また、投手としても34勝11敗・防御率2.34という成績を残している。
さらに、投手と野手の二刀流だけでなく、捕手以外のすべてのポジションを経験している。例えば、三塁の守備から、ブルペンでのウォーミングアップなど全くせず、そのままリリーフで登板し抑えるという、今の野球では到底考えられない離れ業をやってのけたこともある。あまつさえ、現役時代の晩年には、選手でありながら監督も務めている。
1949年には187安打、46本塁打、142打点と、主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新するという驚異的な記録を残した。それまでの最多ホームランは、巨人の川上哲治選手と青田昇選手の持つ25本、打点は藤村氏自身が持つ108打点で、ともに大幅な更新である。首位打者は惜しくも小鶴誠選手(大映ユニオンズ)に譲り三冠王にはなれなかったが、チームは6位(全8チーム)にもかかわらず、リーグの最優秀選手賞(MVP)に選出。藤村氏は多くのファンの心をつかみ、いつしか彼はミスター・タイガースと呼ばれるようになった。
藤村氏の名は、こうした輝かしい成績とともに“物干し竿”と呼ばれる長尺のバットを愛用していたことでも、人々の記憶に残っている。
当時のプロ野球界には“赤バットの川上”(前出の川上哲治選手)、“青バットの大下”(東急・西鉄で活躍した大下弘選手)という呼称がファンに親しまれていた。そこで藤村氏は「同義語でファンにアピールできるものとは何か」を考え、“物干し竿”を生み出した。
「バットに色を塗るなら誰にでもできる。ワシは、誰も持てないような長いバットで、ホームランを打つ」
1948年から“物干し竿”を使い始めた藤村氏は、前述の通り大活躍。後に「ボールが止まって見えたとか、縫い目が見えたとか言われるが、あのときは、そういうものじゃなかった。レフトスタンドがすぐそこに見えた」とまで語っている。
藤村氏は成績を残すこともさることながら、ファンを楽しませることを常に考えていた。闘志をむき出しにするプレーは「阿修羅の藤村」とも表現され、時に審判の判定にもかみついた。一方で投手では、股の間から二塁走者をうかがったり、股の間から一塁へ牽制球を投げるなど、珍無類なプレーで笑いを誘った。
華麗な守備で“牛若丸”と呼ばれ、1985年に阪神を日本シリーズ優勝へ導いた吉田義男元監督は、藤村氏についてこう語っている。
「藤村さんは戦後野球の隆盛を支えてきた。一瞬のプレーでスタンドを沸かせる。失敗すると帽子をたたきつけて悔しがったし、好プレーを見せると喜んだ。ザ・プロフェッショナルです。グラブさばき、バットさばき、いろいろ教わりましたが、すべてが個性の塊のような方でした」
「戦後野球」という言葉の通り、藤村氏が活躍した時代は、日本中が戦争で荒廃していた。そして、戦前の名選手であった巨人の沢村栄治投手や、阪神の景浦將(かげうらまさる)選手は戦死してしまうという悲劇に見舞われていた。
藤村氏も戦争に出兵し、九死に一生を得て生還した。復帰1年目は思うように体を動かせず散々な結果に終わってしまったが、翌年から見事に復活した。日本が復興するように、自分自信も復活しようとする活躍ぶりが、人々の心を魅了したのであろう。
「わしゃタイガースの藤村じゃ」
藤村氏がミスター・タイガースと呼ばれたのは、こうした栄光の記憶だけではない。彼は辛く、厳しい時間を、阪神とともに過ごしている。
1949年末から1950年始にかけて、球界は1リーグから2リーグへと移行。それにともない、球界は主力選手の引き抜きに揺れた。特にタイガースからは、若林忠志、別当薫、土井垣武、呉昌征、本堂保次、大館勲という主力選手が次々と毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に引き抜かれ、そのほかにも長谷川善三が西鉄(現・西武ライオンズ)へ、門前眞佐人が大洋(現・横浜DeNAベイスターズ)へと移籍、チームは急激に弱体化した。
そんな中、藤村氏は、「わしゃタイガースの藤村じゃ」の言葉とともに、チームに残留し、弱体化したチームを支え続けた。
その後もタイガースを支え続けた藤村氏だったが、監督兼選手を務めていた1956年、排斥事件が勃発する。選手たちが藤村監督の解任を要求するという前代未聞のクーデターを起こしたのだ。
事の真相は、給料が上がらない選手たちの不満の矛先が、球団との契約交渉の際、一切に口を出さず球団の提示通りに契約し続ける藤村氏に向いてしまったのである。“藤村が給料を上げるように球団に話をしないから、我々の給料が上がらない”という選手の不満が爆発したのだ。
この事件については、ライバルチームである巨人の川上氏や千葉茂氏までもが、大阪の一大事を放っておくわけにはいかないと乗り出した。結果的に、藤村監督も、クーデターを起こした選手たちも、全員残留で合意するという決着を迎えた。危機にはライバルチームのメンバーが仲介に動くほど、人望や存在感があった証しである。
しかし翌年、その制裁処置かのように藤村は監督を解任される。1958年に1年だけ選手として現役復帰するも、成績は振るわず、結局この年に引退。翌1959年に行われた、甲子園球場での巨人との引退試合は、日本球界における最初の引退試合だったとされている。
初代ミスター・タイガースに学ぶ“仕事”の原点
“ミスター”の称号は、誰かが、正式に付与するものではない。ファンやマスコミから、自然発生的に付けられるものである。藤村氏は、その圧倒的な成績はもちろんであるが、ファンへのサービス精神も旺盛で、感情を表に出してプレーし、戦後荒廃した状況をはね飛ばし、日本中を元気付けた。そして、他チームからの引き抜きという大幅な戦力ダウンの危機においても、チームのために尽くし続けた。
藤村氏の姿勢からは、“仕事”というものの原点が読み取れる。顧客を魅了するようなサービスを繰り出し、その成果は他社からも称賛される。また、他社が良い製品を出せば、“物干し竿”というさらに上のサービスで応戦する。一方で、自分への報酬については、一切口を出さず受け入れ、ひたすらチームのため、ファンのために、仕事に打ち込む。そのストイックな姿勢に、若かりしころの長嶋氏も共感したのだろう。
初代ミスター・タイガースの称号は、「仕事」にシンプルに打ち込む藤村氏のストイックな姿勢に対する、人々の憧れと称賛の表れなのかもしれない。仕事をするすべての者は、藤村氏に大いに学ぶところがあるはずである。
参考文献:
『ミスター・タイガース――藤村富美男伝』(株式会社データハウス刊、十乗院潤一著)
『真虎伝 藤村富美男』(新評論刊、南萬満著)