1962年、阪神タイガースの“2代目ミスター・タイガース”こと村山実氏は、2リーグ分裂後の初リーグ優勝を阪神にもたらし、リーグMVPに選ばれた。初代ミスター・タイガースである藤村富美男氏も成し得ることのできなかった初優勝であった。ミスター・タイガースの称号と永久欠番は、藤村富美男氏と村山実氏の2人だけが持つ栄誉である。
村山氏は引退後、会社員の世界に飛び込み、さらにはベンチャー企業を興して、見事に成功した。
野球とビジネスを知り尽くした村山氏の流儀を、自身の著書『炎のエース ザトベック投法の栄光』からたどる。
ミスター・タイガースの引退後はビジネスパーソン
通算成績、222勝147敗、防御率2.09。最多勝2回、最優秀防御率3回、沢村賞3回、MVP1回。村山氏の残した成績だ。
これだけの功績をあげたスター選手にもかかわらず、村山氏は現役引退後、スポーツ用品メーカーであるSSKの佐々木恭三社長に誘われ、企業勤務を経験している。しかも、土日は野球解説者としての仕事もこなす猛烈ぶりである。「実業」で残りの人生を勝負したいと考えた村山氏は、プロ野球選手だったという過去を利用することなく、自らの意志で、北は北海道から南は鹿児島まで駆けずり回って働いた。
その後、村山氏は独立し、自らスポーツ用品の販売会社を設立。それも“経営はお任せ”といったオーナー社長ではない。「野球用品はこれから従来の専門店に加え、スーパーなどの量販店が販売ルートとして伸びるはず」と、自ら新たなビジネスチャンスに挑戦した起業であった。
村山氏は、大阪に本社を構える株式会社小泉の「創業の精神」に影響を受けたという。それは、「資金なきを憂えず。能力人容なきを悲しまず。骨惜しみなく、手間をいとわず、仕事に倒れるを恐れず」という言葉である。
村山氏の人生を振り返ると、この言葉に影響を受けたというよりは、むしろ村山氏の歩んできた道そのものが、まさに「仕事に倒れるを恐れず」であったことが分かる。
その核心に迫る前に、どうしても触れておくべきエピソードがある。ミスター・ジャイアンツ長嶋茂雄氏との対決。天覧試合でのサヨナラホームランである。
長嶋茂雄に敗れた悔しさをどうやって晴らすか?…
村山投手の最大のライバルといえば、生涯を通じて挑み続けた相手、長嶋茂雄選手である。そのきっかけとなったのが、天覧試合でのサヨナラホームランであった。9回、4-4の同点で迎えた最終回、長嶋選手は天皇陛下が観戦する中、見事に村山投手からサヨナラホームランを放った。この一発が村山投手の大きな転機となった。
タイガースのプロ野球選手というブランドだけで、拍手をしてくれる人は多い。そうして自分が「ハダカの王様」であることに気づかない。それが、“ナガシマ”というブランドによって木っ端みじんに打ち砕かれたことが、自分自身を見つめ直すきっかけになったという。
「この悔しさをどうやって晴らすか?」。村山投手がたどり着いた答えは、「長嶋以上の投手になること」だった。その意味は、長嶋選手の弱点を研究するのではなく、たとえ長嶋選手が絶好調であっても、村山実だけは打てないと言わしめるまでの投手になることだった。長嶋選手を超えるためには、もっと心と技術を磨くほかない。それが天覧試合の屈辱から導いた村山投手の答えである。
その後、村山投手は、天覧試合の借りを返す。1500奪三振、2000奪三振というメモリアル奪三振を予告宣言し、見事に因縁の長嶋選手から奪い取るという離れ業をやってのけたのである。
狙いを定めて攻め勝つすさまじい攻撃的姿勢だが、村山氏自身は、その秘訣は実は防御にあるというのだ。
不確実な時代だからこそ「防御は最大の攻撃」
「攻撃は最大の防御なり」という定説がある。しかし村山氏は逆に、「防御は最大の攻撃」であるという。「追われるより、追いかける側が有利」ともいうが、村山氏はそれは詭弁(きべん)だと断じる。「追われている側」、つまりリードしている側が実は有利で、企業でも同じことが言えるという。
例えばバブル時代は「攻撃さえしてればもうかる」という風潮があった。しかし村山氏は、そういった商売を嫌がり、コツコツと積み上げる姿勢を保った。社員にも地道で堅実な方法を指示した。第三者からすれば、遅々として進まない商売下手に映ったかもしれない。しかしバブルがはじけたとき、多くの会社が慌てふためく中、村山氏の会社はビクともしなかった。それどころか、着実に前進したのだ。その事実について、村山氏は「誇りに思っている」と、企業経営者として述べている。
実は、村山氏の防御への徹底ぶりは、阪神に入団を決めた理由からも分かる。関西大学2年時に全国制覇を成し遂げた村山氏は、ほとんどの球団から誘いを受けた。巨人は契約金2000万円を提示。対する阪神は500万円。しかし阪神の契約は、電鉄社員として採用し、球団へ出向するというものだった。
全国制覇を果たした翌年、肩を故障し思うように投げられない状態を経験した村山氏は、全力のプレーには、負傷して選手生命が絶たれるリスクを常に伴うことを知っていた。阪神が提示した契約であれば、万が一、故障し引退を余儀なくされても、職を失うことはない。だからこそ、その分思い切ってプレーすることができる。
全力でプレーするためにしっかりと生計を立てる。つまり、防御することによって最大の力で攻撃できる状態をつくる。まさに「防御は最大の攻撃なり」である。
名誉は後からついてくる
村山氏の代名詞が「ザトぺック投法」だ。これは人間機関車と呼ばれた陸上のザトぺック選手になぞらえて付けられた村山投手の投法である。その名の通り、阪神に入団後も常に機関車のように全力でプレーし続けた。
「脇目も振らず、自分に与えられた仕事をひた向きにやっていれば、いつの間にか、ある程度のお金と名誉がついてくる。そして頑張っていると、お金と名誉はこちらの体をグイグイと押してくれる」。これも、村山氏の持論である。
自分の今後や人生をしっかりと考えながらも、倒れることも辞さず全力でプレーし続けた後には、2代目ミスター・タイガースという名誉がついてきた。そして、現役引退後もその名誉に押されるように、ひた向きに仕事に打ち込んだ。家族、仲間、友人――。すべて後からついてきて、村山氏のさらなる追い風となったのだ。
防御を重んじれば攻撃に転じる。不確実な時代だからこそ、学びたい流儀である。
参考文献:
『炎のエース ザトペック投法の栄光』(ベースボール・マガジン社刊、村山実著)