そもそも田淵氏は東京生まれの東京育ちで、“ミスター・ジャイアンツ”長嶋茂雄氏に憧れて育った。巨人への入団を夢見てドラフトに望んだものの、交渉権を獲得したのは、事前の挨拶もなかった阪神。しかも入団後に残した個人タイトルはホームラン王1回のみ。結局優勝できず、やがてチームから放出された。
これだけを見れば、誰もこの男がミスター・タイガースだと信じないだろう。しかし田淵氏は、確かにミスター・タイガースとしてファンから愛され続けた。そこには、一流選手では持ち得ない“素直さ”があった。
ミスター・タイガースはファンが与える称号であり、そこに明確な規定はない。しかし、ある時代のただ1人の選手だけに与えられるこの称号は、単にスター選手として大活躍したというだけではない“何か”がある。
3代目ミスター・タイガースの田淵氏は、それまでのミスター・タイガースとは入団する前から大きく様相が異なっていた。上記4ポイントと対比するように紹介しよう。
【a】もともと巨人と相思相愛だった
田淵氏は長嶋氏のファンであり、巨人への入団を希望していた。また、巨人からも「君に背番号、1(王貞治)と3(長嶋茂雄)の間の2番を用意している」とまで言われ、巨人に入団する気満々であった。
【b】在籍時に優勝できなかった
田淵氏が選手として阪神に在籍した10年間、2位は5度あったものの、ついに1度も優勝することができなかった。特に1973年には、残り2試合のうち1勝すれば優勝というところまで迫りながら、2連敗し、優勝を逃してしまった。
【c】あっさりと西武へトレード
1978年、シーズンが終わると機動力を重視するブレーザー新監督の構想から外れ、トレードに出された。深夜の1時、電話で球団に呼び出され、いきなり“決定事項”として告げられた、非情な通告であった。
【d】結果を残す前から「ミスター」候補だった
田淵氏が入団した1969年の監督・後藤次男氏は、後に「球団から『監督生命をかけて田淵を使ってくれ』と、田淵を常時使うために監督に抜てきされた」と打ち明けている。
田淵氏のポジションは捕手。だが当時の阪神には、既にレギュラークラスの2人の辻捕手(“ヒゲ辻”こと辻佳紀選手、“ダンプ辻”こと辻恭彦選手)がいた。田淵の起用には大変な逆風もあったが、後藤氏は辛抱強く田淵氏を起用し続け、見事新人賞に輝いた。
翌年、“2代目ミスター”村山氏が監督に就任すると、村山氏は田淵氏を育てるため、ヒゲ辻を近鉄へトレードに出した。そして、残ったダンプ辻には、田淵氏を看板スターに育てるために、控え選手になるだけではなく、田淵氏の教育係を依頼した。阪神には巨人に対抗できるスター選手が必要で、それは活躍する前から田淵氏と決まっていたのだ。
それでも「3代目ミスター・タイガース」になれた理由
このように、これまでのミスターとは大きく異なる田淵だったが、ファンはやがて彼を「ミスター・タイガース」と呼ぶようになった。
前述の通り、個人タイトルはホームラン王が1度だけだったが、その唯一のタイトルは“世界のホームラン王”王貞治氏の14年連続本塁打王を阻止するものだったからだ。比較的ホームランが出にくい甲子園球場でホームランを量産し、その美しい放物線はファンを魅了した。王選手も、ボールを遠くに飛ばす技術は、田淵氏の方が上だと認めるほどだった。
キャッチャーとしても活躍し、特に往年の名ピッチャー・江夏豊氏とのコンビは「黄金のバッテリー」と称されるほどだった。江夏氏が1971年のオールスターゲームで9連続奪三振を記録した時の捕手も、田淵が務めていた。
しかも田淵はスター選手でありながら、素直で謙虚な人物だった。自分をネタにされ大ヒットしたギャグマンガ『がんばれ!!タブチくん!!』の作者・いしいひさいち氏に対しても、「応援してくれて、お礼を言いたい」と、寛容な姿勢を見せた。俗に“天才”“スター”と呼ばれる人は、天才が故に謙虚になれず、人の忠告には耳を貸すことが難しいものである。
そんなファン愛されたミスター・タイガースを、阪神は入団から10年後の1978年シーズンオフ、手のひらを返すように切り捨てたのだった。
「ミスター・タイガース」の自分ではなく、外部の星野仙一を監督に推挙
田淵氏はその後、西武で2年連続の日本一に輝いた。1984年シーズンを最後に現役を引退。解説者を経て、1990年から3年間福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)の監督を務め、その後は解説者として活躍した。
田淵氏が再び阪神のユニホームに袖を通したのは、2002年シーズン終了後のこと。新任の星野仙一監督の打撃コーチとして、因縁の古巣に戻ってきた。
実は田淵氏は、2001年のキャンプイン直前、阪神球団幹部からアドバイスを求められ、「この球団を生まれ変わらせることのできる人物は、星野しかいない」と進言していた。
ミスター・タイガースと呼ばれた男が、球団幹部からアドバイスを求められたとき、「それなら監督経験があり、3代目ミスター・タイガースの俺しかいない」と言う選択肢もあっただろう。しかし田淵氏は、阪神を優勝させるためにプライドを捨て、大学時代からの友人であり、中日ドラゴンズの監督として結果を残してきた星野氏を推した。阪神からの監督オファーを受けた星野氏は、田淵氏に打撃コーチを要請。田淵氏もこれを受けた。
2003年シーズン、阪神は見事リーグ優勝を成し遂げた。田淵氏はチーフ打撃コーチとして、金本知憲選手・桧山進次郎選手・アリアス選手らを中心とした「第三次ダイナマイト打線」を育て上げた。チーム打率は80試合経過時点で3割を超え、優勝決定時も2割9分7厘、シーズン終了時の最終打率は2割8分7厘と高い数値を残した。打線が爆発して優勝した1985年でさえ、阪神のチーム打率は2割8分5厘。しかも前年まで、シーズン打率が2割3分~5分台に低迷し続けていた打線が、いきなり3割近い数値を残したのである。
藤村氏、村山氏とも監督経験者であるが、どちらも指導者としてはチームを優勝させることはできなかった。一方、田淵氏は、監督に星野氏を推挙し、自らはコーチとして2003年阪神の優勝に尽力した。
2003年のスターティングメンバーの中に、ミスター・タイガースと呼ばれる男はいない。しかし、かつてミスター・タイガースとして阪神のスターになることを余儀なくされた男が、コーチとして陰から阪神を支えてつかんだ優勝だった。
モヤモヤを吹っ切ったジャンボ尾崎の一言
実は田淵氏は、阪神のコーチとして星野氏からのオファーを受けた際、承諾して良いのかどうか、ためらっていたという。そのモヤモヤを吹っ切ったのが、プロゴルファーのジャンボ尾崎氏の一言であった。
「ブチ(田淵氏の愛称)は監督の器じゃねーよ」
星野氏と3人で食事をした時に、ジャンボ氏が言い放った言葉である。普段は温厚な田淵氏もその時はカチンきたが、すぐに図星であることに気づいた。
「“トップに立つ雰囲気を持っている”と言ってくれる人はいる。しかし、監督(星野仙一氏)とはケタが違う。星野仙一のカリスマ性には、到底勝てない」
田淵氏はこのジャンボの一言で吹っ切れた。ダイエーで監督を務めた人間が、阪神に戻ってコーチとなるのであれば、一般的な評価では“降格”である。しかし田淵氏は、こう考えた。昇進だけが自分を生かす道ではない。
これに似た例として、ノーベル化学賞を受賞した島津製作所の田中耕一氏の逸話がある。田中氏は会社から昇進の話を持ちかけられたものの、“自分は研究の現場にいたいから”と断ったという。
ジャンボ氏が田淵氏に言った“器”とは“限界”という意味ではない。“見合うポジション”という意味だ。結果を出すためには、田淵氏のように、田中氏のように、自分にピッタリはまる居場所を早く見つけることが大切なのだ。
“天才にして素直”これこそが3代目の本領
田淵氏は、現役時代、何度もデッドボール、ケガ、病気に苦しめられた。フル出場できたのはわずか2年。しかも、2年目の1970年にはデッドボールによって生死の境をさまよう意識不明の重体も経験している。
“もし”という言葉は安易に使うべきではないが、あえて使おう。もし、デッドボールがなければ、もしケガがなければ、もしホーム球場が甲子園でなかったら、もし王選手と同じ時代でなければ、田淵氏は何度ホームラン王に輝いたか分からない。間違いなく、それだけの実力を備えた選手であった。
その思いは、当の田淵氏自身が他の誰よりも強く思っていることだろう。これだけの実力者である。普通であれば、外部の人間である星野氏を監督に推すことなどできない。「トップの器ではない」という言葉も、到底受け入れることなどできないはずである。
しかし田淵氏は、見事に受け入れた。指摘を受け入れる素直さ、あえて自分ではない、自分が認める別の人間をトップに推して支えることのできる懐の大きさ、それこそが、田淵の本当の実力だ。天性の素直さによって人々から愛され、最終的にはチームを優勝へ導くことに成功した。彼は紛れもないミスター・タイガースであった。
リーダーを任されながらもうまくチームを導けなかったり、リーダーとしての器量に疑問を感じたりしているビジネスパーソンは少なからず存在するだろう。しかし、諦めるには早い。田淵氏のように素直な心を持てば、自分らしくチームのために力を尽くす道が見えてくるはずである。
参考文献:
『魅せて勝つ』(大阪書籍刊、田淵幸一著)
『ホームランアーティストの美学と力学』(ベースボール・マガジン社新書刊、田淵幸一著)
『新猛虎伝説 田淵幸一が初めて明かす新生タイガース優勝秘話!』(光文社刊、田淵幸一著)
『背番号11への訣別 ミスター・タイガースの告発』(恒文社刊、村山実著)