ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
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公開日:2016.08.24
「ミスター・タイガース」と呼ばれた人間は、いずれもタイガース入団以前から世間の注目を集めるスターであった。初代の藤村富美男氏は、甲子園優勝の大スター。2代目の村山実氏は、大学全国制覇を果たした大エース。3代目田淵幸一氏は、長嶋茂雄氏の大学本塁打記録を大幅に塗り替えた東京六大学のプリンスだった。
4代目ミスター・タイガースである掛布雅之氏は、テスト生からドラフト6位で入団した無名選手だった。彼はどうやって、ミスター・タイガースと呼ばれるまでに成長したのか。今回はその道程を、自身の著書『4番打者論』(宝島社新書)からたどろう。
プロ1年目の春季キャンプ、掛布選手は二軍の練習に参加していた。そんな掛布選手をある日、監督である金田正泰が「今すぐベンチに入れ」と一軍に合流させた。コーチ陣は「あいつはタイガースの将来を担う選手になるかもしれないが、今は二軍の環境で育てなければダメだ」と反対した。ところが、金田監督は「俺は掛布を一軍で鍛えることを決めた」と耳を貸さなかった。
結果的に、掛布選手は監督の期待に応え、オープン戦で18打数8安打という好成績を記録し、開幕一軍入りを果たした。当時を振り返って掛布氏は「金田正泰監督がいなければ、その後の僕は存在していなかったかもしれない」と著書に記している。
初年度の打率は2割7厘、ホームランも3本と振るわなかったが、1軍での経験は掛布選手の糧になった。打撃は、山内一弘コーチからレベルスイング(地面と水平にバットを振る打法)やインコース打ちを徹底的に仕込まれ、守備は掛布氏の入団2年目に就任した吉田義男監督から攻撃型の守備を教えられた。
加えて「ミスター・タイガース」としての姿勢を、先輩の田淵選手に学んだ。チームの勝敗の責任、ファンやマスコミからのバッシングなどの全てを引き受ける田淵に対して、掛布は「田淵さんという大きなドームの中で野球をさせてもらっていた」と語る。
そして3年目には、見事3割打者(3割2分5厘)の仲間入りを果たした。ホームランも前年の11本を大きく超える27本を記録し、阪神の中心選手へと成長していった。
翌1977年の成績は打率3割3分1厘、ホームラン23本。1978年も打率3割1分8厘、ホームラン32本と、安定した成績を残した。ところが1978年のオフ、阪神を揺るがす2つの事件が起こる。1つは3代目ミスター・タイガースこと田淵選手が西武に電撃トレードされたことであり、もう1つが「江川事件」(江川卓選手の巨人入団を巡る騒動)をきっかけに、当時巨人のエースであった小林繁選手が阪神に入団したことである。
「カケ(掛布選手の愛称)、次はお前に任せたぞ」と、田淵選手からミスター・タイガースの名を引き継いだ掛布選手は、小林選手が入団していきなり「巨人に伝統はあるが阪神には伝統がない」と発言したことに怒りを覚えたという。しかし同時に、大いに奮起した。結果、当時の球団新記録となる48本塁打を放ち、見事ホームラン王の個人タイトルを獲得した。
このエピソードは「悲劇のエース小林繁から学ぶ“大物”人材の採用法」でも紹介しているが、掛布選手はホームランが量産できた理由として「小林繁という存在が打たせた」と当時を振り返り、さらに小林選手について「タイガースの4番打者として独り立ちさせてくれた恩人」と話す。
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執筆=峯 英一郎(studio woofoo)
ライター・キャリア&ITコンサルタント。IT企業から独立後、キャリア開発のセミナーやコンサルティング、さまざまな分野・ポジションで活躍するビジネス・パーソンや企業を取材・執筆するなどメディア制作を行う。IT分野のコンサルティングや執筆にも注力している。
【T】
プロ野球に学ぶ、ミスターと呼ばれし者の流儀