野球の醍醐味といえば、豪快なホームランや、胸がすくような三振。注目は、打撃や投球に集まる。これまでの連載で取り上げてきた「ミスター・タイガース」の面々も、4番打者やエースに与えられてきた称号である。
しかし「オレは守備を磨いて観客にアピールしよう」と守備でファンを沸かせ、現役時代に2度のリーグ優勝、監督として初の日本一という、歴代のミスター・タイガースですら成し得なかった偉業を達成した男がいた。阪神タイガースの永久欠番23番、吉田義男氏である。
吉田氏は、何も初めから守備の名人だったわけではない。入団時から才能を見いだされ、レギュラーに抜てきされるも、1年目の失策は38、2年目も30と、むしろ“失策王”だった。
しかし、当時の松木謙治郎監督が辛抱強く使い続けた。松木監督は「人は失敗して覚える」が口癖で、失策してしょげる吉田氏に「もう1つエラーしてみろ」と叱りながらも起用し続けた。吉田氏は「プロで最初に巡り合った監督がこの人でなければ、以後の自分はなかった」と振り返る。
入団3年目のオフ、米大リーグのニューヨーク・ヤンキースが来日して、日本チームと16試合を行った。吉田氏も日本チームの一員として参加したが、15敗1分けと圧倒的な力の差を見せつけられた。そんな中、ヤンキースの選手が選んだ「日本で最も傑出した選手」で、吉田氏が選ばれた。
当時の阪神のウリといえば、遊撃手の吉田氏の他、三塁手の三宅秀史氏、日本で初めてバックトスを取り入れた二塁手の鎌田実氏らを擁する「黄金の内野陣」だった。その守りの要が吉田氏であり、その華麗な守備から「牛若丸」と呼ばれるほどだった。
吉田氏はやがて、守備以外でも活躍するようになった。例えば盗塁では通算350回に成功しており、これは2009年に赤星選手が更新するまでの球団記録である。打撃も、優勝した64年に打率3割超えをマーク、この年は179打席連続無三振という当時の日本プロ野球記録を達成した。また、通算264犠打は、今でも阪神タイガースの球団記録である。吉田氏は、もはや守備の人ではなくなった。
1969年に現役を引退したが、吉田氏はその後も努力を繰り返した。引退後は解説者の仕事をしながら、毎年渡米し、大リーグの研究を続けた。
吉田氏が阪神の監督に初めて就任したのは1975年のこと。当時の阪神は、江夏豊氏、田淵幸一氏など太り気味の選手が多く、「阪神部屋」とからかわれるほどだった。積極的に攻める姿勢を持った機動力のあるチームづくりをめざした吉田氏は、「入団した時のユニホームをそのまま着られるように体を取り戻してもらいたい」と、選手に変化を求めた。
しかし、就任3年間の結果は3位、2位、4位と、優勝には手が届かなかった。自身も「空回りしたきらいもあった」と振り返っている。
それからしばらくたった1985年、吉田氏は再び阪神の監督に就任する。1期目の失敗を糧に、基本的にベテラン選手には、それぞれの自主性に任せることによって、逆に自己管理を促すことに成功した。結果、監督就任1年目で初の日本一に輝いた。
しかし、それもつかの間、翌1986年は3位と振るわず、3年目の1987年は主砲の掛布雅之選手が飲酒運転、バース選手がスピード違反を犯すなど、管理体制やモラルを非難される事件が相次いだ。結果、球団史上最低勝率の最下位に低迷し、3年間で天国と地獄を味わって退任した。
フランスで得た阪神再興のヒント
その後、吉田氏は意外な挑戦に出る。野球の発展途上国であるフランスの代表監督に就任したのだ。
きっかけとなったのは、吉田氏がタイガース退任後に、日立製作所のフランス法人の社長を務めていた浦田良一氏に誘われ、フランス旅行に行ったことだった。浦田氏は小さい頃からの大の阪神ファン。フランスでは同国の野球連盟に足を運び、その場で吉田氏をコーチに推挙したのだ。
しかし野球連盟には資金がなく、“ボランティアならば”という反応であった。浦田氏は往復の交通費や滞在費を用意するものの、吉田氏の給与に価するような金額は用意することができなかった。
ところが吉田氏は「今まで野球で食べさせてもらった恩返し」と、コーチを引き受けたのであった。
吉田氏はフランス代表チームに野球のテクニックやセオリーを教え、選手たちもそれに応えた。ゼロからスタートしたチームは、やがてはヨーロッパ選手権で上位に食い込むまでに成長した。
ある日、フランスから日本に帰国した際に、阪神球団の社長から吉田氏に1本の電話が入った。3度目の監督就任要請であった。しかし吉田氏は「本心から監督をやるつもりはない」と、その要請を固辞した。
しかし吉田氏はフランスで、泥だらけになって1つの球を追うフランスチームのひたむきな姿勢を目の当たりにしていた。もしかすると、今の阪神タイガースに足りないものはこれではないか。彼らに教えられた「初心」を持ち帰り、阪神ナインに与えることが、自分の役割かもしれない。そう思った吉田氏は、1度は断った3度目の監督就任要請を承諾した。
「失敗して覚える」指導で大器を育成
1997年、阪神の監督に就任した吉田氏は、選手を追い込んだり放任したりするのではなく、選手が自らモチベーションを保つように心がけた。
例えばキャンプには、フランスチームの3選手を参加させた。感激して必死で練習に付いてこようとする彼らの姿勢が、阪神の選手を触発するだろうと考えたのだ。
そして、才能ある若手選手の教育にも力を注いだ。“虎のプリンス”と呼ばれながらも成績が伸び悩んでいた新庄剛志選手には、4三振した翌日の試合前に「さあ新庄、今日も4つ三振してこいよ」と冗談交じりにミスを気遣った。また、ホームランバッターとして期待されていた6年目の桧山進次郎選手には「何があっても、4番からは外さない」と機会を与え続けた。失敗したとしても、それを糧に成長すべしという、吉田氏の育成方針の表れだった。
さらに、ドラフト1位で入団した今岡誠選手に対しては、ショートだけでなくセカンドやサードも守らせ、内野の守備の名手であるベテラン・和田豊選手と競わせた。さらにトレードでは、中日で出場機会に恵まれなかった矢野燿大捕手を獲得し、正捕手に抜てきした。
成績面だけを見れば、1997年は5位、1998年は6位と、吉田氏の3度目の挑戦は失敗に終わった。しかし、新庄選手は後にメジャーリーグで活躍し、桧山選手や今岡選手、矢野選手はその後の阪神を支える主力選手となり、2003年リーグ優勝の立役者となった。吉田氏のまいた種はしっかり育っていたのだ。
ミスを1つひとつなくす努力が成功につながる
吉田氏の野球人生を見ると、「失敗は成功の元」という言葉が真実であることが分かる。入団当初は「失策王」と呼ばれるほどのミス続きだったが、努力を続けることで守備の名手へと成長した。また監督時代も、1期目の失敗を、2期目の栄光に結び付けた。3期目の挑戦は成功に結び付かなかったものの、若手に失敗をする場を与えたことで、結果的に2003年のリーグ優勝を支える中心選手を育てた。
ビジネスの現場もミスは付きものであるが、日々のミスを潰していくことが、未来の成功へとつながっていく。例えば、事務処理や生産品質の維持といった作業は極めて地味ではあるが、ミスが少なくなることで利益率は高くなり、会社の業績に貢献できる。また、今は頼りない部下も、ある程度の失敗を許容し、辛抱強く育成すれば、やがては企業の未来を担う逸材が出てくるかもしれない。
逆にミスを放置すると、いつまでたっても現状よりも良くならないし、「ミスを絶対に許さない」とチームを厳格に管理しようとすると、メンバーが伸び伸びと仕事をするのは難しい。吉田氏のように、難題に自ら意欲を持って挑戦し、そこでミスをして初めて分かることもあるのだ。
阪神タイガースに多大な貢献を残した吉田氏だが、「ミスター・タイガース」と呼ばれることはほぼない。その代わり、フランス語で「ミスター」を意味する「ムッシュ」という愛称で今も親しまれている。彼もまた、その生きざまから成功の秘訣が読み取れる「ミスター・タイガース」の1人なのだ。
参考文献:
『海を渡った牛若丸―天才ショートの人生航路』(ベースボール・マガジン社刊、吉田義男著)
『監督がみた天国と地獄― 一丸野球が崩れるとき』(エイデル研究所刊、吉田義男著)
『牛若丸の履歴書』(日経ビジネス人文庫、吉田義男著)
『阪神タイガース』(新潮新書、吉田義男著)
『そして、猛虎が蘇った』(東都書房刊、五百崎三郎著)
『ムッシュになった男』(文藝春秋刊、川上貴光著)