実は、これに近い成績を残した投手が存在する。最多勝2回、最優秀防御率1回、最多奪三振6回、沢村賞1回を獲得した、江夏豊氏である。しかもこの成績は、プロ入りから阪神タイガースを離れるまでの9年間という、村山氏よりも短い期間での成績である。
実力は文句なしに“ミスター・タイガース級”である江夏氏だが、彼がミスター・タイガースと呼ばれることはあまりない。好成績を残しながら阪神を去った江夏氏は、移籍先でも好成績を残し続けた。南海ホークス(現、福岡ソフトバンクホークス)、広島東洋カープ、日本ハムファイターズ(現、北海道日本ハムファイターズ)などを渡り歩いた逸材だ。そのうち広島では2度、日ハムで1度の優勝を経験。阪神では手にすることのできなかった優勝の美酒を味わった。その活躍から“優勝請負人”とも呼ばれた。
なぜ江夏氏はミスター・タイガースになれなかったのか。そして、なぜ移籍先で活躍し、“優勝請負人”と呼ばれる存在になったのか。それは「江夏豊」という、強烈な個性の扱い方にあった。
冒頭で述べた通り、投手として素晴らしい成績を残している江夏氏だが、その「一匹おおかみ」な性格からか、ファンに好まれなかった。阪神在籍時にノーヒット・ノーランを達成した時に「野球は1人でもできる」という発言を報道されたこと、監督や一部のソリが合わないフロントから「扱いにくい」「チームの統制を乱す」という評価を下されてしまったことから、ファンには「ワガママな選手」と判断されてしまったのかもしれない。
しかし、江夏氏の阪神入団時の監督であった藤本定義氏は、互いに良好な関係を築いていた。1976年、江夏氏が阪神から離れる際、藤本氏はマスコミのインタビューでこう語った。…
「江夏は十年に一人のピッチャーです。大投手になれたのは、あのわがままでヒネくれた性格があったからこそなんです。昨年、一昨年と成績が悪かったのは使い方が悪いからです。(中略)江夏もそうで、父親のいない貧しい家庭環境で育っています。そこのところを知ってやらねばいけません。それを会社や監督は理解してやらなかった。配慮が足りなかった」(「左腕の誇り」より)。
引用文中の「昨年、一昨年」とは、江夏氏が投手のタイトルで無冠に終わった1974年、1975年シーズンのこと。当時の監督であった金田正泰氏、吉田義男氏は、江夏氏とソリが合わないことで有名だった。
江夏氏は藤本監督のことを「おじいちゃん」と呼び、心を寄せながらも、「怖い」と感じる数少ない存在と語っている。父親を知らず、母子家庭の複雑な事情の中で育った江夏氏に対し、藤本氏は親代わりの心境で接することで、江夏氏からの信頼を得ることができ、江夏氏もそれに応えるべく活躍したのだった。
江夏氏の才能を引き出した“鉄人”と“親分”
ピッチングでは最高のコントロールを見せた江夏氏だが、自分の感情のコントロールは苦手であった。だから、江夏氏が最高の投球をするためには、その弱点をフォローしてくれる指導者、あるいは先輩や同僚が必要だった。そういった存在により、感情をコントロールでき、江夏氏は最高のプレーをすることができていた。
実際、江夏の活躍の裏には、心を許し、その身を預けた指導者や先輩、同僚がいた。その1人が、広島時代、影の女房役として江夏氏を支えた“鉄人”こと衣笠祥雄選手である。
「心から素直に曝け出せる相手がいることは幸いだよ。(中略)俺の場合は、衣笠という男がいて、自分にとって最も曝け出せる男だね」(「善と悪」より)
1979年5月28日。700試合連続フルイニング出場の日本記録(当時)へあと少しのところまで迫っていた衣笠選手だが、打撃不振を理由にスタメンから外されてしまった。その夜、衣笠氏は江夏氏の前で涙を見せ、酒場で荒れに荒れた。江夏氏はそれに一晩中付き合い、慰めた。この時、江夏氏は「自分を信頼して全てを曝け出す相手こそ信頼できる人物」と、衣笠氏のことを「俺にとって必要な男だ」と認識したという。
この酒場の場面とは逆に、衣笠氏が江夏氏を支えたエピソードがある。
1979年、広島東洋カープと近鉄バファローズ(現、オリックス・バファローズ)による日本シリーズ第7戦、無失点で抑えれば優勝という9回裏、江夏氏はノーアウト満塁の大ピンチを迎えた。その時広島の古葉監督が、リリーフの準備を始めた。常々「自分と心中する」と公言してきた監督が、なぜリリーフを用意するのか。江夏氏の胸に、古葉監督への怒りがこみ上げてきた。
江夏氏の怒りをすぐに理解した衣笠氏は、マウンドの江夏氏に歩み寄り「ベンチを見るな。辞めるのなら、俺も一緒に辞めてやる」と告げる。その一言で平静さを取り戻した江夏氏は、大ピンチを無失点で切り抜け、広島に見事球団史上初の日本一をもたらした。
1981年に日ハムに移籍した江夏氏は、ここでも指導者に恵まれた。“親分”こと大沢啓二監督である。
「大沢親分にはグラウンド上では心配かけたけど、プライベートでは本当に苦労したから。こんなデキの悪いオヤジはいなかった(笑)(中略)でもなぜかよく可愛がってくれてね」(「善と悪」より)
大沢監督は、江夏氏が打たれても、一切小言をいわず「使った俺が悪い」とマスコミに一貫して答えていた。「ここまで信頼してくれるんだからなんとか優勝したい」。意気に感じた江夏氏は、日本ハムを優勝に導き、自身2度目のMVPに輝いた。
扱いづらい実力者をどうマネジメントするか?
江夏氏のような、卓越した実力者ではあるものの、扱いづらい人材をマネジメントするのは、決して容易なことではない。確かな結果を出すのであれば、小言を言わず、全てを任せるくらいのおおらかさも、マネジメントする側には必要となる。
一方で、江夏氏ほどの実力者ではないにもかかわらず、わがままで非協力的な姿勢を見せる人材もいる。“自分の手には負えない”と、江夏氏をトレードで放り出すのも1つの手ではある。だが、もしその才能が他社で花開いたとしたら、自社の利益につながらないどころか、自社に牙をむく存在になってしまう。
もし扱いに困る人材が自社にいるのであれば、まずは弱点をフォローする体制を築くことから始めてみてはどうだろうか。やがて自社の“ミスター・タイガース”兼“優勝請負人”のような、代えがたい人材へと育つかもしれない。
参考文献:
「善と悪 江夏豊ラストメッセージ」(KADOKAWA刊、江夏豊・松永多佳倫共著)
「左腕の誇り 江夏豊自伝」(草思社刊、江夏豊著、波多野勝構成)
「牙 江夏豊とその時代」(講談社刊、後藤正治著)