阪神タイガースで活躍した江本孟紀氏といえば、歯に衣(きぬ)着せぬ物言いで人気のプロ野球解説者である。著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」がベストセラーとなったほか、参議院議員を務め、現在も野球中継やバラエティー番組に出演するなど、活動の場は多岐にわたる。
しかし、解説者としての船出は厳しかった。もともと現役時代の成績が抜きんでて良かったわけでもなく、しかも引退の原因が球団首脳陣への暴言だったため、野球界全体から干されていたのだ。江本氏はこの最悪の状況から、どのようにして成功をつかみ取ることができたのだろうか?
江本氏のプロ入りは1971年のこと。ドラフト外で東映フライヤーズにピッチャーとして入団し、その年は0勝で終わるも、翌1972年には野村克也監督率いる南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)に移籍し16勝をマーク。チームもリーグ優勝に輝いた。
しかし1974年3位、1975年5位とじり貧になっていく。チーム内に充満した危機感から、3名の選手が野村監督に直談判することとなり、江本氏もその1人だった。それが首脳陣の心証を害したのか、江本氏はシーズンオフに江夏豊選手との交換トレードで阪神に移籍することとなった。
この状況で、後に退団への伏線となる出来事が起きる。1980年のキャンプで、投手が外野で練習している最中、控え選手が打撃練習を行い、若手投手に打球が当たるという事件が起こったのだ。なぜ、投手の練習中に打撃練習を行うのか。投手に対する扱いの粗雑さに腹を立てた江本は、中西打撃コーチに猛抗議した。ホテルに戻っても怒りは収まらず、中西コーチの部屋へ行き「いい加減にせえよ!」と、ベッドに向かって、たばことライターを投げつけてしまった。
1981年シーズンの江本氏は、先発かリリーフかもはっきりしない状態となっていた。キャンプでは登板機会を与えられず、シーズン前に「リリーフで行くぞ」と宣告されたと思いきや、要員不足で急きょ先発を言い渡されるなど、采配への不信感は募るばかりであった。
そんな中、1981年8月26日、甲子園で行われた阪神-ヤクルト戦で事件は起こった。
8回に4-2と追い上げられ、2アウトニ・三塁のピンチ。相手の打順は8番で、次打者は投手。こうしたケースではベンチがバッテリーに、勝負あるいは敬遠といったサインを送る。しかし、江本氏がベンチを見た瞬間、中西監督はベンチ裏に消えてしまった。仕方なく様子を見ようと、江本氏は高めに外した球を投げた。
バッターは、その中途半端な球を見逃さず打ち返した。打球は“敬遠だ”と高をくくって腕組みしていたセンターの前に運ばれ、同点にされてしまった。しっかり外していれば打たれなかったはずだし、はっきりと勝負していれば、打球はセンターがアウトにできたはずだ。江本の中のベンチに対する怒りが最高潮に達した。
降板を命じられロッカールームに向かうとき、感情が爆発し、「くそ。バカ。何を考えとんねん。このくそベンチ!」と叫んだ。これが「ベンチがアホやから野球がでけへん」という見出しになり、新聞各紙が一斉に報じたのだった。この発言で世間を騒がせた江本氏は、そのシーズンオフに自ら引退の道を選んだ。
「エモやん、最近声変わったんじゃない?」
江本氏はもともと、引退後は野球とまったく関係のない仕事をしてもいいと思っていた。しかし、「球団にもファンにも真意が伝わっていないのに、このまま球界を黙って去るのはあまりにも口惜しい」「何か一発かましてやりたい」と思い直し、解説者として球界にとどまる決心を固めた。
とはいえ、引退の経緯から、あらゆる野球メディアに無視され、まったく声がかからない。半ば諦めかけていたところに、若手時代から仲良くしていた記者との縁で、運良くニッポン放送から解説者のオファーが届いた。
それでも、江本氏は不安だった。「現役時代の実績も名球会の先輩たちに比べると半分(通算成績113勝126敗)ほどでしかない自分が、解説者として長く生き残っていくのは容易ではない。すぐに何かやらなくては」と考えた江本氏は、「声で勝つ」ことを思いついた。ラジオの聴取者は、長ければ4時間近くもアナウンサーと解説者の会話を聞かされる。耳障りな声や聞き取りにくい声では、リスナーは苦痛である。それなら、声が良ければ有利に立てるに違いない。
ちょうどその頃、江本氏はミュージカル俳優が出演前にボイストレーニングをすることを知り、自分もトレーニングに通うことにした。トレーニングを始めて約3カ月後には、ニッポン放送の実況アナウンサーである深澤弘氏から「エモやん、最近声変わったんじゃない?」と聞かれるほどだった。
辛口ではあるが軽やかな口調の江本の解説は、徐々に評価されるようになった。著書「プロ野球を10倍楽しく見る方法」がベストセラーになると、映画やドラマ、バラエティー番組に出演し、さらには歌手デビュー、週刊誌コラム、コメンテーターなどでも活躍。マルチタレントとして仕事の幅を一気に広げていった。
こうした知名度も味方して参議院選挙に出馬し、1992年にはスポーツ平和党の比例区、1998年には民主党の比例区で見事当選を果たした。2004年の大阪府知事選、2010年の参院挙はいずれも落選に終わったが、その間も解説者の仕事は続け、今も第一人者として活躍し続けている。
江本氏の発言はただ辛口なだけではない
「ベンチがアホ」騒動から30年以上もたったが、江本氏は中西監督に対し「私のように生意気な選手には厳しく接するしかなかった」と、今になってその気持ちが分かるようになったと語っている。
しかし一方で、騒動のもととなった発言や、きっぱり現役を引退したことについては後悔していないという。確かに、江本氏の人生は「ベンチがアホ」騒動から始まったと思えるほどの大活躍ぶりである。
江本氏が、辛口解説者として支持を受け、政界やタレントでも活躍できた裏には、自分の気持ちに正直でありながらも、常に聞き手のことを意識していたことが大きいだろう。信念に裏打ちされた手厳しい内容を、耳障りではない聞き取りやすい声で伝えることで、人々は江本の言葉に耳を傾けたのだ。単なる暴言や文句なら、人々は離れていくだけである。
ビジネスでも、苦言を呈さなければいけないときは多々ある。もちろん、現役時代の江本のように暴言を発するのは言語道断ではあるが、たとえ手厳しい内容だとしても、それが信念に裏打ちされており、かつ聞き手のことを考えて話すことができれば、相手は聞く価値のある言葉として耳を傾けてくれるはずである。