野球界には「代打の神様」という言葉がある。先発メンバーからは外れているものの、ここぞというときにピンポイントで起用され、その期待に応えるバッターのことである。
ファンから「代打の神様」と呼ばれる選手が、阪神タイガースにも何人かいる。例えば、代打起用で球団歴代2位の98打点を記録した八木裕氏もその1人だが、同じく代打起用で球団歴代1位の99打点を記録した桧山進次郎氏もまた、代打の神様の称号を受けた1人である。
桧山氏はもともと、若手時代に「ミスタータイガース」候補の1人に浮上するほどの有望な選手だった。その後、結果を出せない日々が続き、引退も考えたこともあったというが、腐ることなく努力を続けた結果、最後は代打の神様として、22年もの長きに渡ってチームに貢献し、ファンに愛され続けることになる。
その時々の苦しい環境からの脱出を手助けしてくれたもの――それは「発想の転換」だった。
「ミスタータイガース候補」の栄光と転落
桧山氏は、1992年にドラフト4位で東洋大学から阪神タイガースに入団。即戦力としての活躍を期待されたが、3年もの間、下積み時代が続いた。転機は1995年のオールスター明けの初戦。4番で出場予定の石嶺和彦選手が体調を崩し、思わぬ形で4番の大役が回ってきた。
4番に求められるものはホームランだ。降って湧いた4番の大抜てきを契機に、桧山氏の打撃は本塁打狙いのフルスイングへと変化。1996、1997年には、2年連続で20本以上の本塁打を記録した。
甲子園は、グラウンドが広い上に、桧山氏のような左打者にとって不利な浜風が吹く。ライトスタンドからレフトスタンドに向かって風が吹くため、打球が伸びずに押し戻されるのだ。そのため、阪神の左打者で2年連続20本以上のホームランを放ったのは、桧山氏以前に掛布雅之氏ただ1人。桧山氏は、掛布氏に継ぐこの偉業を成し遂げ、一躍スターダムにのし上がった。
しかし、本塁打と引き換えに三振は増え、打率は低迷した。1999年に野村克也監督が就任すると、その年の成績は95試合323打席8本塁打、翌2000年は87試合186打席4本塁打と、ホームランどころか、出場の機会すら減り始めてしまった。
ベンチ暮らしの日々で気付いた名将のボヤキ…
一度でも脚光を浴びた選手がベンチを温めることは苦しい。「お前みたいなヤツ、もう野球を辞めてしまえ!」というファンの心ないヤジが胸を突き刺す。反発する力を失い、悩み、「野球を辞めたらどうすればいいのだろう」という思いが、桧山氏の頭をよぎる。
しかし、ベンチ暮らしの日々の中で、気付くこともあった。試合中、野村監督は相手ピッチャーの配球を読み「スライダーだな」などとポツリとつぶやく。そして打者が凡退すると「フォークに決まっているだろう」とボヤく。桧山氏はこの野村監督のクセをまねし、次第に配球を読むようになった。そして配球だけでなく、打席に入る準備、心構えについても考えるようになり、野村監督が提唱する“考える野球”を身に付けていった。
そしてある日、桧山氏は「一生懸命やってダメなら仕方ない。中途半端で終わったら、次の人生でもまた同じことの繰り返しになってしまう。これ以上、やれることは何もない、と言えるくらい野球をやり切ろう」と、モヤモヤした気持ちを吹っ切り、これまでの本塁打狙いのフルスイングを改めた。
当時の桧山氏は、2軍に落とされても文句の言えないくらいの低成績だった。しかし野村監督は、桧山氏が腐らず懸命にプレーし、練習を続けた姿を見ていたからか、たとえベンチであっても、ずっと1軍に留め続けた。そして01年には、当時の球団記録となる28打席連続安打を達成。シーズンを通しても自身初となる打率3割を残し、レギュラーの座を再び自分の力で奪い返した。
リズムがつかみづらい代打起用で結果を出すコツ
レギュラーに返り咲いた桧山氏であったが、広島東洋カープの中心選手だった金本知憲氏の加入、新たなミスタータイガース候補である濱中治氏の台頭により、再び代打要員に転落する。しかし彼はここでも腐らなかった。以前のようにレギュラーを奪い返したい気持ちももちろん持っていたが、そのためにもまずは代打で結果を残さなければならない。桧山氏は、代打で結果を出すためにあらゆる努力を重ねていった。
レギュラーと代打の一番大きな違いは「リズム」だ。レギュラーは4打席の中で結果を出すことができるし、序盤から終盤に向かって、打って守ってリズムをつくることができる。それに対して代打は、たった1打席で結果を出さなければならない。桧山氏は、どうやってリズムをつくるかに苦しんだ。監督と自分で考え方が違うと、ここだと思った場面で出番が来ない。逆に、思わぬところで出番が回ってきたりする。どうしても代打でリズムをつくることができない。
苦心の末にたどり着いた答えは、「リズムをつくろうとするから失敗する。代打にはリズムはないと思えば、リズムをつくる必要がない」だった。
考えを変えた桧山氏は、これまでよりも、代打での1打席、1球に集中できるようになった。バッティング練習では、今までは、何球か打ち続ける中で自分のバッティングをつかんでいくという考え方で練習していたが、バッティング練習でも、1球目から自分のポイントでしっかりと打てることを目標に変えた。
その結果、代打での成績が向上し、2008年には3割をマーク。いつしか「代打の神様」と呼ばれるまでになっていた。
次々変わる役回りに適合していく努力がチームの力になる
在籍22年の間に、チームの環境は大きく変わった。7年間で6度の最下位というタイガース史上最弱の時期と、2度のリーグ優勝を含めて、毎年リーグ優勝を争えるチームとなった時期――桧山氏はその両方を経験した。また自身も、ミスタータイガース候補から一転、控えの時期を過ごすも、最後は「代打の神様」として脚光を浴びるなど、選手としての大きな浮き沈みや、環境の変化を経験した。
桧山氏はその時々で、変化に適合するよう常に努力を欠かさなかった。努力を実らせることができたのは、発想の転換だ。その連続の末、22年という長きに渡り、現役生活を続けることができた。
仕事においても、業界の状況に浮き沈みもあれば、配属先のメンバー構成によって任される仕事も変わる。上司との巡り合わせによって、自分の扱いも大きく左右されるだろう。
しかし大切なことは、桧山氏のように、自分の実力や環境を素直に受け入れ、与えられた役割の中でひた向きに努力することだ。立場が変わり、これまでのやり方でうまくいかなければ、成果を出すための新しい方法を考え続ける。そうすれば、形は変わっても、組織に貢献でき、自分自身の“選手生命”も、長く保つことができるのだ。
参考文献:「生え抜き タイガースから教わったこと」(朝日新聞出版刊、桧山進次郎著)