人手が足りない、業務を任せられる人間がいない――。こんな悩みを抱えている経営者やマネージャーも多くいることだろう。人手不足は、どの組織も頭を抱える問題だ。
プロ野球の世界も同様である。100試合以上の長丁場を戦う中では、中心選手がケガをして出場できなくなり、チームが良い成績が残せなくなる時期は必ず訪れる。そこでどのような方針を打ち出すのかが、監督の腕の見せどころでもある。
例えば、野村克也氏が監督を務めていた1999年~2001年の阪神タイガースは、人手不足が深刻だった。3年間の成績はすべて6位(つまり最下位)。打者では新庄剛志選手や今岡誠選手に桧山進次郎選手、投手では藪恵壹選手や星野伸之選手、井川慶選手らが所属していたものの、順位を上げるほどの結果には結びつかなかった。
そんな中で野村監督は、球界を騒然とさせる采配を打ち出す。遠山奬志選手、葛西稔選手という2人のリリーフ投手をフィールドに置いた「遠山・葛西スペシャル」だ。
セリーグが誇る左打ちの強打者をどう打ち取るのか
当時の野村監督は、投手陣のやりくりに困っていた。特に「サウスポー(左投げ)」のリリーフ投手の不足である。
野球界では一般的に、左打者には左投手を、右打者には右投手をぶつけるのがよいとされている。例えばノーアウト満塁で強力な左打者を迎えた場合には、右投手に代えて左投手をワンポイントで投入する、というのが野球界のセオリーである。
当時のセリーグは、強力な「左打者」がそろっていた。読売ジャイアンツには後に大リーグに挑戦する松井秀喜選手や現監督の高橋由伸選手、ヤクルトスワローズには本塁打王2回のペタジーニ選手、横浜ベイスターズ(現、横浜DeNAベイスターズ)には2度の首位打者に輝いた鈴木尚典選手、広島東洋カープには金本知憲選手……。ピンチでこうした強打者を迎えたいときには、左投手にすべてを任せ難を逃れたいところではある。
しかし、1999年当時の阪神には、左投げのリリーフ投手が少なく、ベテランの遠山選手ら数名がいる程度。85年の優勝以来低迷を続ける阪神に、良い選手はなかなか来なかった。
遠山選手は、当時あまり頼りになるとはいえない存在の選手だった。1986年に阪神に投手として入団したものの、大きな結果は残せず1990年にトレードでロッテオリオンズ(現、千葉ロッテマリーンズ)へ移籍。1995年に打者へ転向しても結果は出ず、自由契約となった1997年オフに、再び投手として阪神にテスト入団した苦労人である。
そんな苦境にて、野村監督はこの苦労人を生かす策を考えつく。右投手の葛西稔選手とのスイッチ策である。
ベテラン2人の経験に基づいた“非常識”な作戦…
通称「遠山・葛西スペシャル」と呼ばれるこの策は、左投手の遠山選手が投げている間に、右投手の葛西選手にファーストを守らせ、そして葛西投手が投げている間は、遠山投手にファーストを守らせる、というものである。
例えば相手の打線が「左→右→左」と続く際には、最初の左の強打者に対して遠山選手を投入して打ち取り、そして次の右打者に対しては、遠山投手に代えて右のピッチャーを投入するのがセオリーである。しかし、その次に左の好打者が待っている場合には、再び遠山選手を投入できない。すでに交代済みだからである。
そこで野村監督は、「交代ではなく、あくまでピッチャーとファーストという守備位置を交換する」という継投策を思いついた。これであれば、わざわざ選手交代しなくとも、左打者には左投手の遠山選手を、右打者には右投手の葛西選手がぶつけられる。
こうしたスイッチ策は、プロ野球の世界ではほとんど見られない、ある意味で“非常識”な作戦だった。とはいえ、野球規則にはのっとっており、例えば高校野球であればよく見られる光景である。
この2人が野村監督に選ばれたのは、葛西投手、遠山投手が共に野手経験者だったことが挙げられる。遠山選手は先述の通り野手に転向していた時期があり、葛西選手も投手としてプロ入りしたが、東北高校時代は野手として甲子園に出場した経験があった。
葛西投手は、プロ入り後はさほど目立った活躍はないものの、リリーフ経験は豊富で、1997年には10セーブを記録していた。投手としては珍しいサイドスロー(横手投げ)だったことも、野村監督の目に留まったのかもしれない。
「苦肉の策」ながら確かな成果
果たして、この継投策の成果はどうだったのか。実は、遠山・葛西スペシャルが発動された試合は6試合だけで、葛西選手以外のピッチャーとのスイッチを含めても8試合だけしか行われていない。
野村監督は後に、遠山・葛西スペシャルを「苦肉の策」と振り返っている。実際に、2000年夏に左のリリーフ投手を新たに獲得してからは、一度もこうした継投は行われていない。あくまでも選手が足りない時期をやり過ごすための、一時的な処置でしかなかったのだ。
だが、そのたった8試合すべてに、阪神は勝利している。しかも、いずれも接戦やピンチのシーンで発動されたものである。結果的にシーズンを最下位で終えたチームにしては、驚異的な勝率である。
もちろん、両選手が野村監督の期待に応えたのは言うまでもない。野村監督に左のストッパーとして重用された遠山選手は、1999年には巨人の主砲である松井選手を13打席無安打に抑え、“松井キラー”として大活躍。2000年にはオールスターゲームに出場するほどの人気者となった。
また葛西選手は、2000年には7勝6敗17セーブという高成績を収めた。この年の阪神の勝利数が57だったので、葛西選手はチームの勝利の4~5割に貢献したことになる。
結果的に3シーズンとも最下位に終わった野村監督も、こうしたベテランを活用した策が評判を呼び、1990~1998年に務めたヤクルトの監督時代に引き続き、「野村再生工場」と評されるようになった。
人材活用の1つの理想形
野村監督が発案した「遠山・葛西スペシャル」からは、たとえ人手不足だったとしても、アイデア次第で急場をしのぐことは可能であることが学べる。
日本は深刻な人手不足に悩まされている。都内では、飲食業などを中心に求人が出ているものの人が集まらないという課題を抱え、地方でも廃業する企業も増えている。少子高齢化の日本で、今後、人手不足はさらに深刻化するだろう。
しかし野村監督のように、ベテランを重用したり、意外な配置を行ったりなど、アイデアを活用することで、苦しい時期を乗り越えることはできる。野村監督は2001年に退くが、同監督が育てた若手選手が、2003年の優勝に貢献したことはよく知られている。
たった8試合にしか発動されなかった「遠山・葛西スペシャル」だが、今でもプロ野球ファンの間では語り草になっている。名監督の指揮のもと、弱小チームのベテラン選手が見せた輝きは、人材活用の1つの理想形といえるだろう。そのときの状況、本人たちの気持ちもあるだろうが、登場した8試合すべてで勝利を収めたのだから。