ビジネスを加速させるワークスタイル(第15回)
似ているようで違う、法人向け光回線の選び方
公開日:2017.06.29
川藤幸三氏といえば、“代打の神様”として、阪神タイガースファンから愛された選手の1人である。現役引退後は野球解説者・評論家として活躍するだけでなく、バラエティー番組にも出演し、特に関西地方では絶大な知名度を誇っている。
そんな川藤氏ではあるが、選手としての成績はパッとしなかった。プロ入りから19年間の通算成績は、211安打、108打点、16本塁打、打率2割3分6厘。一流打者であれば3年もすれば残せそうな数字を、19年かけてようやく残した。
“二流”の成績しか残せていない川藤氏がなぜファンから愛されたのか?それは川藤氏が、一流選手にはできない仕事をしていたからである。
川藤氏が阪神に入団したのは、1967年のシーズンオフ。高校時代に春夏の甲子園には出場していたものの、ドラフトの順位は9位と、まったく期待されていなかった。控えとして出番が回ってきても、与えられた仕事は守備固めか代走という地味なものだった。
若い頃の川藤氏は、2軍で盗塁王に輝いたこともある俊足の持ち主だった。だが、「守備や、走塁に対する評価は低い。いくらそれを磨いても、やって当たり前で、評価されることはない。認められるためには、『打撃』を磨くしかない」と決意。足が痛いと偽っては、守備や走塁の練習を避け、打撃練習だけに打ち込んだ。
そんな川藤氏を助けたのが、裏方の人々だ。川藤氏は、ピッチングマシンを使った打撃練習が嫌いで、人の投げるボールしか打ちたくなかったため、用具係の小笠原正一氏に打撃投手を頼んだ。元阪神の投手だった小笠原氏は、一銭にもならない川藤氏のバッティング投手を引き受けた。
また、川藤氏が屋内練習場で黙々とトレーニングをしていると、甲子園球場のグラウンドキーパーが「たまには本球場のグラウンドでやれや。球はワシらが拾ったる」と声を掛けた。川藤氏の“愛される”才能は、この頃から発揮されていた。
練習のかいもあり、一軍に定着した川藤氏であったが、かといって目立った成績が残せたわけではない。球団側は1983年のシーズン後に「選手生活もしおどき」と、川藤氏に引退を迫った。
しかし、諦めきれない川藤氏は「現役をもう1年続けさせてくれはるんやったら、どないな条件でも受けましょう。年俸は2分の1。ずっと2軍でも一切文句は言わない」と懇願。結果的にこれが受け入れられ、川藤氏は翌シーズンも阪神に在籍することになった。
こうした川藤氏の“浪花節”で献身的な姿勢は、ファンに愛された。チームがチャンスになると、スタンドからは「川藤を出せ~」のヤジが飛び、そして川藤氏が代打で出ると「アホか~ホンマに出すな~」というイジりのようなツッコミが飛んだ。
ファンからも愛される人気選手となった川藤氏は、結果的に1985、1986年シーズンまで阪神との契約を勝ち取ることになった。
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執筆=峯 英一郎(studio woofoo)
ライター・キャリア&ITコンサルタント。IT企業から独立後、キャリア開発のセミナーやコンサルティング、さまざまな分野・ポジションで活躍するビジネス・パーソンや企業を取材・執筆するなどメディア制作を行う。IT分野のコンサルティングや執筆にも注力している。
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