川藤幸三氏といえば、“代打の神様”として、阪神タイガースファンから愛された選手の1人である。現役引退後は野球解説者・評論家として活躍するだけでなく、バラエティー番組にも出演し、特に関西地方では絶大な知名度を誇っている。
そんな川藤氏ではあるが、選手としての成績はパッとしなかった。プロ入りから19年間の通算成績は、211安打、108打点、16本塁打、打率2割3分6厘。一流打者であれば3年もすれば残せそうな数字を、19年かけてようやく残した。
“二流”の成績しか残せていない川藤氏がなぜファンから愛されたのか?それは川藤氏が、一流選手にはできない仕事をしていたからである。
若手時代から発揮された「愛される才能」
川藤氏が阪神に入団したのは、1967年のシーズンオフ。高校時代に春夏の甲子園には出場していたものの、ドラフトの順位は9位と、まったく期待されていなかった。控えとして出番が回ってきても、与えられた仕事は守備固めか代走という地味なものだった。
若い頃の川藤氏は、2軍で盗塁王に輝いたこともある俊足の持ち主だった。だが、「守備や、走塁に対する評価は低い。いくらそれを磨いても、やって当たり前で、評価されることはない。認められるためには、『打撃』を磨くしかない」と決意。足が痛いと偽っては、守備や走塁の練習を避け、打撃練習だけに打ち込んだ。
そんな川藤氏を助けたのが、裏方の人々だ。川藤氏は、ピッチングマシンを使った打撃練習が嫌いで、人の投げるボールしか打ちたくなかったため、用具係の小笠原正一氏に打撃投手を頼んだ。元阪神の投手だった小笠原氏は、一銭にもならない川藤氏のバッティング投手を引き受けた。
また、川藤氏が屋内練習場で黙々とトレーニングをしていると、甲子園球場のグラウンドキーパーが「たまには本球場のグラウンドでやれや。球はワシらが拾ったる」と声を掛けた。川藤氏の“愛される”才能は、この頃から発揮されていた。
「川藤を出せ~」「ホンマに出すな~」
練習のかいもあり、一軍に定着した川藤氏であったが、かといって目立った成績が残せたわけではない。球団側は1983年のシーズン後に「選手生活もしおどき」と、川藤氏に引退を迫った。
しかし、諦めきれない川藤氏は「現役をもう1年続けさせてくれはるんやったら、どないな条件でも受けましょう。年俸は2分の1。ずっと2軍でも一切文句は言わない」と懇願。結果的にこれが受け入れられ、川藤氏は翌シーズンも阪神に在籍することになった。
こうした川藤氏の“浪花節”で献身的な姿勢は、ファンに愛された。チームがチャンスになると、スタンドからは「川藤を出せ~」のヤジが飛び、そして川藤氏が代打で出ると「アホか~ホンマに出すな~」というイジりのようなツッコミが飛んだ。
ファンからも愛される人気選手となった川藤氏は、結果的に1985、1986年シーズンまで阪神との契約を勝ち取ることになった。
「今回の優勝にはこいつの執念も入っとるんじゃ」…
阪神が21年ぶりに優勝した1985年シーズンは、まさに川藤氏の才能が発揮された年だった。
川藤氏は同年のある日、初代ミスター・タイガースである藤村富美男氏に呼び出され、「お前、最近、監督の言うこと聞かんらしいな」とドヤされた。川藤氏はどんな説教をされるのかとおびえたが、藤村氏は「それが、ファンあってこそという伝統を忘れんタイガース魂や」「お前なんかゲーム出んでええ。ベンチでふんぞり返って、誰が監督か分からんくらい偉そうにしとるほうがよっぽど阪神のためや!」「その媚びない姿『虎の血』というものを教えていくのがお前の仕事なんじゃ」と、川藤氏を激励した。
実際のところ、同年の川藤氏の出場試合数は非常に少なく、代打で31試合31打席に立っただけ。ホームランもゼロだった。
しかし、試合以外の部分が川藤氏の大きな仕事だった。主砲のランディ・バースには将棋を教え、チームで孤立しないよう相談相手となった。掛布雅之選手、岡田彰布選手、真弓明信選手といった主力選手同士に対しては、無理に交流させず、それぞれの選手と飲みに行く配慮を見せた。そして出番の少ない若手選手とも食事し、チームを結束させた。
川藤氏にこうした裏方の仕事を依頼したのは、吉田義男監督である。この点については、過去の記事でも詳しく取り上げたので詳細な説明は省くが、その川藤氏を精神面でサポートしていたのが、1983年まで阪神でエースとして活躍していた小林繁氏であった。
川藤氏は小林氏の恩に報いるため、選手だけの優勝祝勝会に、出席を固辞する小林繁氏を無理やり呼び、全員の前に引っ張り出して、こう言った。
「こいつの今までの熱い思いは知っとるよな?今回の優勝にはこいつの執念も入っとるんじゃー!みんな分かっとるやろな?」
全員が口をそろえて言った。「分かってまーす!」と。
小林氏は巨人から移籍し、阪神に「勝利の執着心」を植え付けた人物である。川藤氏は、一見すると分かりづらい小林氏の功績を、優勝というまたとないタイミングで、チーム全員でたたえたのである。
川藤氏のこうした性格は、ファン、主力選手、助っ人外国人、若手、OB、裏方、監督という、チームに関わるすべてのステークホルダー(利害関係者)に愛された。そして、阪神というチームが1つとなり、21年ぶりの優勝へとつながったのだ。
「結果を出してない」を理由にクビにする前に
阪神が1983年に川藤氏をクビにしていたら、川藤氏が契約延長を懇願していなかったら、恐らく1985年の優勝はなかっただろう。川藤氏は1986年のシーズンオフに引退したが、チームの精神的な支柱を失ったためか、阪神はその後、長い低迷期を送ることになる。
会社組織には往々にして、特筆した結果を残していないにもかかわらず、周囲から愛される人間が存在する。しかし「結果を残していないのに愛される」というのは、「結果を残しているから愛される」よりも難しい。“愛されること”それ自体が、人と人をつなぐ希少な才能なのである。結果が出ていないからといって、むげに切るのは得策ではない。むしろ、そうした人材を活用することを考えるほうが先決だろう。
余談ではあるが、川藤氏は引退後、妻の実家の建設会社社長に就任した。その建設会社は、先代の死後、経営が傾いたものの、川藤氏が社長に就任したことで、持ち前の愛されるキャラクターで取引先や社員との関係を築き、見事V字回復を果たしたという。
ステークホルダーに愛されることで組織をまとめるということも、一流の才能なのだ。
参考文献:
「代打人生論 ~ピンチで必要とされる生き方~」(扶桑社刊、川藤幸三著)
「川藤幸三の豪快人生相談」(ベースボールマガジン社刊、川藤幸三著)
「男・川藤・ドアホ野球―阪神(タイガース)の“春団治”」(リイド社刊、川藤幸三著)
「阪神すきやねん―ワシは火の玉タイガースの春団治」(角川書店刊、川藤幸三著)